542話
雄太が東京から自宅に戻ると、リビングから明かりが漏れていた。
(え? 春香、まだ起きてるのか……?)
東京からだと帰りが遅くなるので、春香はもう寝ていると思っていた。凱央を起こしてしまわないように、そっとドアの開閉をして、足音をさせないように歩く。
リビングのドアを開けると、ソファーに座っていた春香がニッコリと笑った。
「おかえりなさい、雄太くん」
「ただいま。もしかして……待っててくれた?」
「うん。コーヒー淹れるね」
「ああ。頼むよ」
小さな声で話し、雄太は自室に向かいベッドの上に置かれているスウェットを手に脱衣所に向かった。着ていた物を脱ぎ、バッグの中の洗濯物を洗濯機に入れてボタンを押すと、やはり勝てなかったと言う気持ちが蘇ってくる。
(カームだったら……。たらればは駄目だって思ってるんだけど……。それでも……)
洗濯機に水が入る音を聞きながら、小さく息を吐いた。
『カームだったら勝てていたかも知れない』
そんな思いが新幹線の中でも頭の中に浮かんでは消えを繰り返していた。
『勝てる』『勝ちたい』は馬主も調教師も思っている事。負けると思っている人はいない。例え『この馬では難しい』と考えていたとしても、『もしかしたら』『何とかなるんじゃないか』と考えている事だ。
騎手も『この馬じゃあ……』と思っても、一つでも順位を上げたいと思っている。
「あ〜っ‼ 駄目だっ‼ こんな事を考えてても先には進めないっ‼ 終わった事より、次だっ‼」
雄太は両手でパンッと頬を叩いて気合いを入れた。
ちゃんと切り替えなければならないのは騎手として必要な事。ウジウジ考えているより、次に乗る馬の事を考えなくてはならない。
(よしっ‼)
また、なるべく足音をさせないようにリビングに戻った。
コーヒーをテーブルに置いてソファーに座っている春香を抱き締めた。
「春香、待っててくれてありがとう」
「お疲れ様。無事に帰ってきてくれて良かった」
抱き締め返してくれる温もりと優しい声が胸に沁みわたる。
何も言わなくても、春香も悔しがっているのは分かっている。
(春香は、もしかしたら俺以上の負けず嫌いかも知れないからな)
悔しいからとヒステリックになるのではなく、拗ねたような顔をして、必死で涙を堪えていたのだと理保が言っていたのだ。
『お義母さん、今日一緒にお昼食べませんか?』
嫁からの嬉しいお誘いを断る訳もなく、孫にも会いたいからと土曜日や日曜日に理保は何度も雄太宅に訪れていたのだ。
その時、競馬中継を一緒に見ていて雄太が勝てないと悔しそうにしていたと聞かされた。
『本当に悔しそうだったわ。口には出さなくても春香さんは雄太に勝って欲しいと思ってるのね』
凱央の初節句の日に、コッソリと話してくれた理保も嬉しそうだった。
(俺は、レース終わりの春香を見た事がないからな……。悔しがってるだろうとは思ってたけど……)
騎手は負ける事のほうが多いのだ。それは、当たり前の事である。だが、やっぱり雄太が勝つところが見たいのが本音である。
だから、理保から聞いた時に『春香らしい』と思っていた。
「今日、お義父さんも何度もテレビに映ってたよ。やっぱり、皆親子制覇を待ち望んでるんだね」
「そうだな。そりゃ、俺だって父さんとG1獲りたいって思ってるんだけどな」
「そんな簡単じゃない……よね?」
「ああ」
腕を解いて、キスをする。
「ホットミルクの味がする」
「あは」
春香の笑顔で負けた悔しさがゆっくりと癒されていく。
もう一度キスをしてからコーヒーに口をつける。
「今日は勝てなかったけど、次頑張るよ。まだまだサイン増やさないとな」
「うん」
とりとめのない話をして、コーヒーを飲み終わると、雄太はしっかりとマッサージをしてもらう。
「ハァ〜。気持ち良い」
「ここ?」
「ああ」
次の勝利の為に、心も体も充実させておかなければならないと思い、春香の温もりを感じながらゆっくりと眠った。




