20章 様々な思いと歩み 540話
10月28日(日曜日)
東京競馬場では、秋の天皇賞が開催される。
(本当なら……ここにカームがいたかもしれなかったのに……)
まだカームが引退してしまった喪失感が春香の中にあった。それだけ、カームの存在が大きかったのだなと改めて思っていた。
目を閉じると退厩の日、すり寄ってきた姿が思い出される。抱き締めた温もりがまだ残っている気がする。
数日前。
「これ、静川調教師と馬主さんが春香にって」
調教を終え、自宅に戻った雄太が差し出したのは、前が擦り減った蹄鉄だった。
「え?」
「カームのだ」
「カームの……蹄鉄……」
震える手で受け取り、そっと抱き締める。
「こんなに大切な物をもらっても良いのかな……?」
訊ねた声が小さく震える。
「ああ。調教師が、うちのコレクションルームに飾っておいてくれって。俺にとっても大切な大切な相棒のだから、『一生大切にします』って言ってもらってきた」
「うん……うん。ありがとう」
潤んだ目で愛おしそうに蹄鉄を撫でた春香は、コレクションルームに行き、カームと撮ってもらった写真の横に並べた。
カームと重賞を獲った時の雄太のサイン色紙と、尻尾の抜け毛が入ったフォトフレームも同じ棚に並べてある。
しばらくの間、春香はそこから動けずにいた。
「あ、お義父さん」
パドックが映り、濃いグレーのスーツを着てキリリと調教師の顔をして立っている姿を見つけた。
(やっぱり、雄太くんってお義父さんに似てるなぁ〜)
お惣菜を持っていった時に見せる笑顔とうって変わって、凛々しい顔をしているからだ。
仕事中であると言うのもあるだろうけれど、競馬と言う勝負の世界で生きているのが分かる顔は雄太と同じに見える。競馬に対し真摯な姿勢が顔に出ているといった感じだ。
いつもより、真剣な顔をしているのは、慎一郎の管理馬の鞍上が雄太だからだろう。
雄太はカームに乗るだろうと慎一郎も思っていたが、カームの引退を聞いた慎一郎は、その日の内に雄太に騎乗依頼を出した。
「馬主に確認をとったら、是非にと言う返答だった。乗るよな?」
元々、雄太が何度も乗っている馬だったのだが、雄太がカームに乗るなら誰を乗せるかと言う話をしていたらしい。
「え? まだ鞍上決まってなかったんだ?」
「まぁな。誰が良いか色々と考えていたんだが、お前が空いてるなら、乗り替わりの騎手を探さなくても良いしな」
「手間が省けたみたいに言うなよぉ……」
「大事な大事な預託馬だからな。手が合って、勝てる騎手に背中を任せたいと思うのは、儂だけでなく馬主の願いなのは知ってるだろうが」
「分かってる。乗らせてもらうよ」
そんな会話をし、鞍上が雄太に決まると新聞は『親子タッグで狙うG1制覇』と騒ぎ立てた。
取材が殺到した所為で帰りが遅くなった雄太はブツクサ言ってはいたが、天皇賞に出場出来るのは嬉しそうだった。
カレンダーに予定を書き込みながら、ふと見せた淋しそうな表情が気にはなった。
(カームで出たかったんだよね……。私も、雄太くんとカームのコンビが見たかったよ)
競走馬の走れる期間が短いのは、雄太も重々承知はしている。だが、せめて引退レースを走りたかったと思っているだろう。
だが、無事に引退が出来て種牡馬になれたのだから喜ぶべきなのも分かっているだろう。
(ちゃんと切り替えないとって、雄太くんも思ってるはず……。だから、今日は雄太くんらしい走りを見せてね。そして、無事に帰ってきて……)
凱央はベビーウォーカーでトテトテと走り回りながら、時折テレビを見ている。
「ンパァ〜」
「よく分かったね。パパ格好良いね」
「ンパァ〜。ンパァ〜」
雄太がアップで映ると凱央はジャンプするような感じで、両手を振り上げている。
親子でのG1制覇がいかに注目されているのが分かる。雄太のアップが映り、慎一郎と並んでいるところが映る。
二人の喜ぶ顔が見られたらと思うと、いつも以上にドキドキとしている春香だった。




