539話
カームの退厩の日。
「カーム……」
引き綱をつけ馬房から出されたカームは、両手を広げて近づいた春香にすり寄り、小さく鳴いて首を春香の肩に預けた。
「ヒン……」
恋人同士が抱き合うかのような姿でしばらくジッとしているのを周囲の人々は何も言えずに見守っている。
「カーム……。今まで、本当にありがとう。大好きだよ。元気でね?」
春香が涙を浮かべながら、小さな声で何度も呟いているのが聞こえる。
静川も担当厩務員も、薄っすらと涙を浮かべながら、その様子を見ていた。
「もう……春香さんに甘える大型犬のカームは見られないんですね……」
「そうだな……。儂は今まで何頭も見送ってきたが、こんな切ない気持ちにはなった事がない……」
春香とカームの姿の写真を撮っていた取材カメラマンでさえ、目が赤くなっているのに気づいた雄太は、驚いた顔で眺めていた。
(こんなにも……こんなにも馬と心が通じるんだろうか……。梅野さんや小野寺先生が感じた春香の騎手の才能を伸ばしていたら、どんな騎手になっていたんだろう……)
そうは思ったものの、思い入れが強過ぎて、万が一騎乗馬が予後不良にでもなったら、春香の心にどれだけの深い傷が残るだろうと想像すると、春香が騎手にならなかったのは正解だと思った。
(春香は……優し過ぎるからな……)
ベビーカーから身を乗り出している凱央を抱っこして、ゆっくりとカームに近づく。周りからは、幼い子供を抱いたままなのを心配するようにザワザワと声が広がった。
前が大丈夫だったからと、今日も大丈夫だとは限らないとは思う。だが、春香を大好きなカームが凱央に危害を加える訳がないと言う確信が雄太にはあった。
「カーム、ありがとうな。お前のおかげで、俺の夢は何歩も前に進めたんだ。お前と菊花賞に出るって決めて良かったぞ?」
カームは首を上げ、雄太に顔を寄せた。
「お前は、本当に最高の相棒だったぞ。俺の誇りだって言えるぞ。元気でな。お前の仔に乗れるのを楽しみにしてるぞ」
「アゥ……ンバァ……」
状況を理解出来るはずもない凱央も淋しそうな声を出しながらカームの顔に手を伸ばし撫でている。
静川の計らいで引き綱を持ち、口取り写真のような記念写真を撮影してもらった。
カームはどこか誇らしげで大人しくカメラを見ていた。
撮影が終わると、これが最後と言うように、再び春香に顔を近づけるとペロリと舐める。
(カームも分かってるんだろうか……。春香と離れなければならない事を……)
まるで『もう泣くなよ』と言っているように雄太には思えた。
ゆっくりと引き綱を引かれ馬運車に向かったカームが立ち止まり、名残惜しそうに振り返った。
春香が小さく手を振るとカームは馬運車に乗り込んだ。去って行く馬運車が見えなくなるまで、春香も凱央も手を振っていた。
「春香さん。見送りにきてやってくれてありがとう」
「静川調教師……。私こそ、お見送りさせてくださってありがとうございました……」
声をかけてきた静川に、春香は深々と頭を下げた。
「騎手でも厩務員でもない春香さんを同席させる事はおかしいと言われるかも知れない。たがな、カームの気持ちを考えたら……誰よりも春香さんが見送ってくれるのが嬉しいだろうと思ったんだよ。カームを大切にしてやってくれて、本当にありがとう。カームは幸せだったと思う」
「……はい」
カームは引退レースと称するものを走る事は出来なかった。京都大賞典が実質引退レースとなってしまった。
「天皇賞に出られなかったのは残念だが、無事に競走馬から種牡馬になれたんだ。次は、カームの仔を応援してやってくれ」
「もちろんです。雄太くんがカームの仔で勝つ日を楽しみにしています」
「ああ」
カームの血を引く仔が産まれ、数年後にその背中に雄太がいると考えると、ほんの少し気持ちが前向きになれる気がした。
(カーム、北海道で元気で過ごしてね)
大きく優しく甘えん坊なカームの馬房を見詰めてから、雄太達は静川厩舎を後にした。




