538話
10月9日(火曜日)
トレセンから戻った雄太は難しい顔をしていた。
声をかけても心ここにあらずといった感じだった。
(何かあったのかな?)
春香が訊ねる前に、雄太は風呂に入りに行った。
風呂から出た雄太は、ダイニングでレシピ本を読んでる春香に声をかけた。
「春香、ちょっと良いか?」
「うん」
雄太は春香の角を挟んで右側に座る。テーブルに置かれている烏龍茶を一口飲む。
「落ち着いて聞いてくれよな? カームの事なんだけど……」
「え?」
雄太は、そこまで言って黙っていた。何かしら重要な話であるのが伝わってくる。
雄太は黙って頷いた春香の手を握る。
「カームは……もう走れないんだ」
「え? 走れ……ない……? カームが……?」
頭の中を雄太の言葉がグルグルと回る。
(走れない……? 走れないって……何……? 何で……?)
「春香は知らないだろうけど、カームは……繋靱帯炎って言うのになってしまったんだ……」
「けい……じんたいえん……?」
「まぁ……簡単に言うと全治に八ヶ月から一年はかかる足の病気なんだ」
春香の握り締めた両手が震える。徐々に涙が浮かぶ。ドキドキと鼓動が早まる。
「年齢的な事もあるし、治ってから走る能力が今のようにあるとも思えないって事なんだよ……」
「じゃあ……じゃあ……」
「……引退……って事になると思う……」
雄太の手も微かに震える。
「引退……。……もう……カームが走るところを……見られないって……事なんだ……。もうカームに……会えないの……?」
「それは……分からない。種牡馬にはなれるとは思う……。けど、牧場が人と会わせてくれるかは分からないんだ。牧場それぞれに方針があるから……」
春香の頬に涙が伝う。次から次と溢れる涙が顎まで伝って、ポタポタと落ちる。
「……そう……。カームは……私の馬じゃないし……雄太くんの馬でもないもんね……。会いたいなんて……我が儘でしかないもんね……」
「春香……」
「つらいのは……もうカームに乗れない雄太くんだもんね……」
泣くのを我慢しようとした春香の喉がグググッと音をたてる。グイッと涙を拭うが、溢れる涙をとめる事は出来なかった。
「本当なら……天皇賞に出る予定だったんだ。静川調教師とも、そう話してたんだ。カームは去年勝ったし、連覇もって……」
「うん……」
本来なら……騎手として、こんな風に落ち込んでいるのはおかしいと言われるだろう。
だが、カームは雄太にとって初めてのG1を獲らせてくれた馬であり、春香にプロポーズをさせてくれた馬なのだ。
そして、その春香もカームに愛情を注ぎ、雄太がヤキモチを焼くぐらいの仲睦まじさだ。
「ほら、涙拭いて」
雄太が洗面所から取ってきたタオルを手渡す。春香は頷いて、タオルで顔を覆った。
(カーム……。カーム……。こんな事になるなら京都競馬場に見に行けば良かった……。分かってる……。いつ何があるか分からないのが競馬だって……。でも……でも……)
凱央は、もう離乳食だけでもよくなったから競馬場に行けると思っていた。京都大賞典が終われば、天皇賞に出るのだと、静川や雄太だけでなく、春香も想像していた。
あまり良い手段とは思ってなかったが、天皇賞に出る懇意にしている馬主にお願いして馬主席に入れてもらおうかと考えていた。
もう、それも叶わなくなった……。
「まだ決まってないけど、退厩日に見送れるように、静川調教師にお願いしてあるんだ」
「お見送り……出来るの……?」
小さな声で訊ねる春香の頭を撫でてやる。
「決まったら言うよ。淋しいのは俺も一緒だから、な?」
「うん……。あ」
昼寝から起きた凱央がモゾモゾと動いているのが見えた。
春香は立ち上がり、ダイニングの隅に置いたベビーベッドから凱央を抱き上げる。
(ターフを走ってるカームを凱央にも見せてやりたかったな……)
いつかカームも引退すると思っていた雄太も淋しさが胸に押し寄せていた。




