535話
10月5日(金曜日)
日曜日に京都大賞典を控えた雄太は、気力も体力も充実していた。
(ん〜。春香のマッサージで体も軽い。カームの調子も良いって静川調教師も言ってたしな。天気はイマイチみたいだけど、カームならやってくれるだろ)
京都競馬場の調整ルームに出かける前、少しの時間でも良いからと凱央と遊んでいた。
「ほら、お馬さんだぞぉ〜」
「オゥオ〜。ダダァ〜。ウキャ〜」
リビングのソファーの前で、ぬいぐるみを動かして、レースのように追いかけっこをさせてみると、凱央は手を叩いて喜んでいる。
春香が洗ってフカフカになった物をたくさん並べて遊び、サンルームには干している馬が並んでいるいつもの風景だ。
「凱央。パパ、カームと頑張ってくるからな?」
「ンパ」
話しかける雄太に、凱央は満面の笑みで喃語を口にする。
「ねぇ、この『ンパ』って『パパ』に近い気がしない?」
「そうなんだよなぁ〜。けど、まだ『パパ』とか単語を言うのは早いんだろ?」
「うん。でも、成長は個人差が激しいから。特に男の子は言葉が遅いって言われてるんだよね」
「そっか。でも、凱央は凱央だ。健康ならそれで良いさ」
「うん」
凱央はソファーのところまでハイハイをしていき、つかまり立ちをした。
よろついた時に受け止められるぐらいの位置に雄太は移動する。近寄り過ぎると凱央の移動の邪魔になるので、少し離れた位置だ。
「凱央、ボール要るか?」
ソファーにボールを置くと手にして背もたれに向かって投げる。転げ落ちたボールを拾って、また置くと凱央が投げる。そんな単純な遊びでも嬉しいらしく、凱央はキャッキャと声を上げる。
「よし、お馬さんも遊びに来たぞ」
今度は、馬のぬいぐるみを置いてやると手にしてポフポフと座面に打ちつけていた。恐らく雄太がやっている追いかけっこの真似だろう。
そうして遊びながら、時折雄太達のほうを見る。
「たまにさ、『ちゃんと見てる?』みたいに、こっちを確認するのも可愛いんだよな」
「だねぇ〜。見てて欲しいんだろうね」
「転んだりしないか見てるんだって、凱央には分からないだろうな」
「うん」
お風呂用にと買い足した鳴き笛付きの金魚を置いてやるとギューッと握り締めて、プピープピーと音をさせている。
「バァウ〜。ウキャ〜」
「ん〜。これは……何を言ってるか不明だな」
「うん」
金魚から手を離した凱央は、何度か屈伸のような動きをしてソファーから手を離した。
「え? あ……立ってる……」
「え? あ……」
雄太の目が真ん丸になる。凱央は、真剣な顔をして雄太を見ていた。
春香はリビングボードに置いてあるビデオカメラを手に取り、録画ボタンを押した。
まだ危なっかしくフラつく足取りで凱央は一歩踏み出した。両手を雄太に差し出しながら。
「凱央……。パパのところにおいで」
「ンパァ……」
雄太はいつ転んだりしても支えられる体勢でいた。春香は目を潤ませながら、録画を続けている。
「ンパァ〜。ンパァ〜」
また一歩踏み出し、バランスを取っては、また一歩と雄太に向かって進む。
「後少しだぞ。凱央」
「ンパァ」
ドキドキと胸が高鳴る。距離にすれば50センチといったところだろうか。歩き始めの歩幅が狭い凱央が辿り着くのには時間がかかってしまうが、雄太はジッと我慢する。
(俺が前に行けば凱央を抱っこしてやれる……。けど、凱央は頑張って歩いてるんだ……。限界まで……限界まで……。凱央が自分の力で俺に触れるまで我慢だ……)
一歩……。一歩……。その時間は長く長く感じられた。
「ンパァ〜」
凱央の指が雄太の指に触れた後、腕に倒れ込むようになり、雄太は凱央をギュッと抱き締めた。
「凄いぞ、凱央ぉ〜」
「ウキャウ〜」
そう言って高い高いをしてやると凱央は声を上げて笑った。
(良かった……。初めて歩くところが見られたんだ。俺、メチャクチャ嬉しいっ‼)
充実していた雄太の気力が更に充実したのは言うまでもない。




