533話
9月19日(水曜日)
帰宅した雄太が風呂を終えて、ダイニングで烏龍茶を飲みながら、春香に声をかける。
「あのさ、まだ先の話なんだけど、俺またハーティに乗る事になったんだ」
「え? そうなの?」
「ハーティなここんとこ成績が良くないのは知ってるか?」
「うん」
雄太が騎乗した5月の安田記念以降、ハーティの成績は芳しくなく年内で引退するという記事が出ていたのだ。
「ハーティの引退レースは有馬記念になると思う。依頼は来たけど、ハーティの調子によっては……」
「うん。どうなるか分からないよね」
「ああ」
有馬記念は12月23日に中山競馬場で開催される。その前に、ジャパンカップにも出るから、調子が上がらなかったり、疲れが残っていたりすれば出走を回避する事もあるのだ。
それを春香は分かっていた。
数時間前……。
調教終わりの雄太を藤波が呼び止めた。
「鷹羽くん」
「あ、藤波調教師」
「お疲れ。あのさ、鷹羽くん。有馬記念の依頼受けてる?」
「え? まだですけど」
藤波の管理馬には何度か騎乗させてもらったが、依頼がどの馬なのか分からなかった。頭の中でどの馬なのか想像していると、一瞬藤波の顔が曇った。
「そっか。えっと……ハーティの馬主が、引退レースの背中を鷹羽くんに任せたいって言ってて……。また迷惑をかけるかも知れないけど、最後だし頼めないか……って事なんだけど……」
申し訳なさそうに言う藤波にどう言ったら良いのか迷ってしまった。まだ他の馬からの依頼は受けてはいない。だが、今の雄太なら騎乗依頼はあるだろう。
実際今まで騎乗した馬も出るだろうとは言われていたから、ハーティを断ったとしても有馬記念には出られる可能性は高い。
だが、受けてしまえば他の依頼を断る事になり、有馬記念に出る事も出来なくなる。
「鷹羽くんは……正直、ハーティをどう思う?」
「良い馬ですよ? 伸び伸びとしてるし、負けん気もあって、スピードもパワーもありますし」
「そうなんだよ。俺も良い馬だって思ってる。ただ、前の事があるから……さ」
藤波の心配は、恐らく雄太への嫌がらせ。他の騎手には、雄太の時ほど嫌がらせはなかったから雄太のアンチである事が想像出来た。
「そう……ですね……」
他にも乗りたい馬がいない訳じゃない。でも、雄太はハーティの実力を買っている。
(ハーティは競走馬としての限界が来てるのかも知れない……。でも……)
「分かりました。よろしくお願いします」
「え? 良いのかい?」
雄太の口から出たのは了承の言葉だった。藤波は驚いた顔をした。
「はい」
「そうか。ありがとう」
ホッとした顔を見せた藤波に頭を下げて、藤波厩舎を後にした。
「そっか。頑張ってね」
「ああ。良いレースをして、ハーティの引退の花道を飾ってやるよ」
「うん」
また何かあるかも知れないが、良い騎乗をしてやりたいと思ったのだ。ただ心配なのは、また春香が嫌な思いをするかも知れないって事だった。
「えっと……」
「『また嫌な思いするかも知れないけど、勝手に決めてきてごめん』なんて言ったら怒るからね?」
「え? あ……」
雄太は自分が口にしようとした内容を春香に言われて、誤魔化しきれずに苦笑いを浮かべる。
「競馬の事は雄太くんが決めて良いんだからね? そりゃ、私や凱央の事を考えてくれるのは嬉しいよ? でも、それで雄太くんの騎乗の選択の幅を狭くしたりしなくて良いの。依頼をもらって、良い騎乗をするのが騎手でしょ?」
「そうだな」
雄太は烏龍茶を一口飲んだ。
(迷うなよ、俺。自分でハーティの騎乗依頼受けたんだろ? 俺が、今出来るのは、ハーティが無事にジャパンカップを走り終えて、有馬記念に出走出来る状態になってくれる事だ。もう、依頼は受けたんだ。有馬記念当日に出来るのは、精一杯乗る事。腹括るぞ)
ベビーベッドで昼寝をしている凱央に目を向ける。
(凱央の誕生日だし、頑張らないとな)
烏龍茶を飲み干し、カレンダーに予定を書き込んだ。




