509話
6月に入り、新馬戦の始まる月になった。
(新馬……。どんな馬に乗せてもらえるんだろうな。良い背中の馬に巡り合えたら良いなぁ〜)
阪神競馬場の調整ルームに向かう前、リビングでベビーウォーカーに座った凱央と遊びながら雄太は来週の宝塚記念の事も考える。
(来週かぁ……。今のところ、ハーティファンから何かあった訳じゃないし、ハーティの鞍上に何かあったとか聞いてないな。……やめやめ。考えるのやめよう)
「アゥ〜ウニャ〜」
「ほら、凱央。お馬さんだぞぉ〜」
「ダァ〜」
タオル生地の小さな馬のぬいぐるみを凱央の前で走らせる真似をする。
どうやら凱央は馬のぬいぐるみが好きらしく、家にはいくつも置いてある。齧ったりするからと、春香は毎日手洗いをしている。
サンルームには洗った馬がいくつも干されていて、窓ガラスの向こう側の庭の芝生の上を走っているように見える。
「雄太く〜ん、コーヒー入ったよ」
「ん? ありがとう」
雄太はテーブルにつき、春香が凱央と遊びはじめる。
(凱央のこんな可愛い時期に遠征で会えなくなるのって残念だなぁ……)
春香がピンクの馬と黄色の馬をベビーウォーカーのところで追いかけっこをしているようにすると、凱央はキャッキャと声を上げて笑っている。
「凱央の笑った声って癒されるよな」
「まだまだ可愛い声だよね。そのうち雄太の声に似てくるのかなぁ〜」
「骨格が似てたら、声って似てくるのかな?」
雄太は慎一郎と骨格は似ていると、年配の調教師に言われた事がある。声も似ていると理保に言われた。
「私、雄太くんの声好きだし、凱央が似てくれたら嬉しいな」
付き合ってる頃、電話で話している時に、耳元で聞こえる雄太の声にドキドキとしていた。全く同じ声になるかどうかは分からないけれど、好きな声が増えるのは嬉しいと思った。
「男の子だと似る可能性は高いかもな。声変わりするまでは分かんないけどな」
「今の可愛い声も後十年と少しぐらいなんだね」
「そうだな」
ゆっくりコーヒーを味わい、春香と凱央が遊んでいる姿を見て笑みが漏れる。
「今年の遠征、どうなるかなぁ〜」
「北海道か九州かぁ……。函館、また行きたいな」
「函館気に入ったのか?」
「うん。ちょっとしか観光出来なかったけど、雰囲気が好き」
結婚前、函館に行ったのが懐かしい。
仕事を始めるまで、市内から出た事がなかった春香がよく一人で北海道まで自分のレースを見に行く決心をしたなと、雄太はつくづく思った。
「その前に宝塚記念だからな。終わったらデートしような?」
「うん」
天皇賞の後にデートをしようと約束をしていたのに、まだデート出来ていなかったのだ。
祝勝会があったり、急な取材があったりして押しに押していた後、ハーティの事があって、外出は控えていたからだ。
ハーティファンの動向が分からないと言うのもあったが、春香が精神的に弱っていたからと言うのもあった。凱央に何かあっても困ると思ったら出かけるのを控えざるを得なかった。
「どこか行きたいところあるか?」
「ん〜。藤森神社に行きたいな」
「あ〜。そうだな。そろそろ紫陽花が綺麗だろうしな」
雄太が堂々と付き合うぞと決心をして、初めて腕を組んで歩いた思い出の神社だ。
G1を獲って春香と結婚をするぞと絵馬を奉納し、御守りを受けた。
「遠征明けたら秋競馬だし、雄太くんのG1優勝の祈願したいな。まだ、これから遠征だけどね。気が早いけど」
「ははは。去年は妊娠中で行けなかったもんな」
遠征が始まれば、ゆっくり出かける事も出来なくなる。
今年も二週間に一度戻ってきて、春香にマッサージをしてもらい、出来るだけ多くの勝ち鞍をあげたいと思っている。
(今年もリーディング狙いたいんだ。俺の勝ちの原動力は春香と凱央って言う大切な家族だと言う事を知らしめたいんだ)
まだ僅かではあるが『早くに結婚をして上手くいく訳がない』と言う声がある事を知っている雄太は、その雑音を消し去りたいと考えていた。




