507話
トレセンから戻った雄太はカレンダーに騎乗予定と取材やテレビ出演などのを書き込んでいく。
「この日は中京……。ここも中京……と」
夏の遠征に行く前に、阪神競馬場で行われる宝塚記念に出走が決まっている。
G1に出られる事は嬉しいが、ハーティが宝塚記念に出走登録してあり、また何かあるのではと雄太は少しモヤモヤした気持ちを抱えていた。
ただ、鞍上は雄太ではないので、前のようにはならないだろうと、雄太だけでなく慎一郎や藤波も思っていた。
(次の鞍上にも、同じように彼らは言うんだろうか……? それとも、俺だったからなのか……)
もし、次の鞍上に何もなかったら、それは雄太のアンチがいると言う事。もしくは、次の鞍上はハーティファンには認められていると言う事。
アンチがいるのは、正直気持ちが良いものではないと思ったが、人間の気持ちはどうしょうもない。
ましてや、競馬は金を賭ける公営ギャンブルである為、馬券をハズシた観客からヤジが飛ぶのは日常茶飯事なのだ。
(競馬なんてハズれるのが大半だってのに……な)
今回の安田記念は十六頭立てだった。単勝で考えても、十六分の一なのだ。優勝したハーティ以外の十五頭に賭けていれば負ける。競馬とはそう言うものなのだ。
そもそも、馬券を買うのは買う本人が決めて買う物なのに、負けると『金返せ』とヤジられる。
鈴掛の同期の騎手は『買うヤツの見る目がないだけなのにヤジる馬鹿が多くて腹が立つ』と競馬新聞のインタビューで答えて、しばらくヤジが酷かったと聞いた事がある。
(まぁ……もう、あんまり考えないようにしよう……。どうこう考えても仕方がない事だしな……)
ただ、春香が心を痛めるのがつらいと思っていた。
「雄太くん、明日の取材で着る服はこれで良い?」
「ん? あぁ、ありがとう」
「G1シリーズは取材が多くて大変だね」
「そうだなぁ……」
もうハーティの時のように、胃がキリキリする事もないとは思う。
それでも、春香は安田記念のサインを満面の笑みで受け取り抱き締めていた。
ただ、カームの時のように『会いたい』とは言わなかった。
『騎手の妻って言うだけで、あんまり馬房に入ったり、馬に会ったりしたら駄目なんじゃないかなって……』
寂し気に言う姿を見ると、かなり堪えたのかなと思ってしまう。
「カームは夏の間は放牧に出てるけど、帰ってきたら会いにいこうか?」
「え?」
「カームも会いたがると思うぞ? しばらく会えてないだろ? 春香の事を探してたんだぞ」
「カームが……」
天皇賞を走り終えたカームはリフレッシュする為に放牧に出る事になって、たまたまその場に雄太はいた。その時、馬運車に乗るギリギリまでカームは落ち着きなくキョロキョロとしていたのだ。
「……もしかして春香さんを探してるんじゃないのか?」
「え? まさか……」
「否、鷹羽くん。カームならあり得るぞ?」
「なんたって、春香さん大好き〜なヤツだからな」
「しばらく舐められなくて淋しがってるんだよ、きっと」
静川だけでなく、担当厩務員もゲラゲラ笑っていた。
(まさか……とは言ったけど、カームならあり得るんだよなぁ……。春香にベッタリだしさ。本当、甘え方が大型犬っぽいんだよな。お手とかしそうだって言われた時に納得しちゃったぞ)
雄太は立ち止まったカームの首筋を撫でてやる。
「カーム。しっかりリフレッシュしてこいよ? 帰ってくる時は、春香を連れてくるからな?」
馬は言葉は理解出来ないと言われているのに『春香』と聞くと、耳がピョコピョコ動くのはなぜなんだろうと雄太は思う。
「カーム、そんな感じだったんだ」
「ああ。静川調教師もぜひ遊びにおいでって言ってくれてたんだ」
「うん。そう言ってもらえるの嬉しいな」
馬に言葉は通じない。だが、気持ちは伝わると雄太は思っている。
自分に向けられた訳ではないが、大勢の悪意を感じたハーティはどうなるだろうと心配になった雄太だった。




