505話
火曜日、雄太は少し早目に家を出て、藤波厩舎に寄った。
「藤波調教師。おはようございます」
「おはよう。持ってきてくれたか?」
「はい」
雄太は、大きな紙袋を三つ差し出した。藤波は大きく目を見開いて、深い溜め息を吐いた。
そして、紙袋を受け取ると事務机の上にドサッと置いた。
「こんなに……か」
「ええ……」
中には、数えるのもウンザリする数の封筒が入っている。雄太の自宅に届けられた物と辰野厩舎や競馬場、トレセンに届けられた嫌がらせの手紙。
「馬主からも、迷惑をかけたと謝罪されたよ」
「そんな……。馬主の所為ではないのに……」
「俺もそう言ったんだよ。自分の馬の鞍上を誰にするか決める楽しみも馬主にはあるってな」
馬主には鞍上を決める事が出来る。ただ、調教師がその騎手は合わないと言う事もある。
馬主と調教師で決めた騎手鷹羽雄太に、これだけの出来事が起きるとは、全く想像もしてなかった。
「こんな経験はしなくても済むなら、そのほうが良いんだが……。あった事は、なかった事には出来ないしな。あ、あって欲しくないが、また届いたら俺の所に持ってきてくれるか?」
「はい。……あの……」
藤波の苦虫を噛み潰したような顔を見ながら、雄太は恐る恐る切り出した。
「ん?」
「色々ありましたけど……。これからも、よろしくお願いします」
『乗せて欲しい』とは言わない雄太に、藤波はいつもの優しい笑顔を向けた。
『乗りたい』と言って乗らせてもらえる訳じゃないのは、雄太も分かっている。だからこその言葉に藤波は頷いた。
「ああ。俺は騎手鷹羽雄太の騎乗技術を買ってるからな。また頼むよ」
「はい」
雄太は深々と頭を下げて、辰野厩舎へ向かっていった。
その背中を見送った後、事務机の上に置いた紙袋を見て、また深々と溜め息を吐いた。
翌週の優駿牝馬、その次の週の東京優駿も、雄太は掲示板入りは果たした。
だが、一着になれなかった事から反省点はどこだろうと、レースのビデオを何度も見直す。
(ん〜。ここ……か?)
雄太は難しい顔をする。その様子を見ながら、春香はサイドテーブルにコーヒーカップを置いた。
無意識にコーヒーカップを持って口に運ぶ。さっきとは違う温度のコーヒーに気づいた。
「え?」
「どうしたの?」
「……ごめん。俺、ビデオに集中してて春香と凱央の事を放置してた……」
申し訳なさそうに謝るとビデオを止めて、春香に向き直る。
「そんな事気にしなくて良いのに」
春香はニッコリと笑う。
地下のコレクションルームでなく、リビングのテレビでレースの見返しをしたかったのは、春香と凱央の存在を感じたかったからなのに、気がつけば没頭していた。
(俺って本当競馬の事になると周りが見えなくなるな……)
家族との時間を大切にしたいと思っているはずなのに、レースを見返したり、次のレースの展開を考えたりしていると二時間や三時間、コレクションルームに引きこもっているのが当たり前になっている。
さすがに調教を頼まれたりしている時は、早目に寝るようにはしているが、たまに今日のように集中して寝るのが遅くなったり、春香が何度もコーヒーを淹れ直してくれている事にも気づかなかったりする事があった。
「春香」
名前を呼んで、両手を広げると、春香は満面の笑みを浮かべて、雄太の腕の中に体を預ける。
(忙し過ぎて……。春香と過ごす時間が減ってるんだよな……。それなのに、一言も文句を言わずにいてくれて……)
家事も育児も一人でさせないと思っていたのに、家で過ごす時間もない時がある。
天皇賞が終わったらデートをしようと言ったのに、それもまだ実現していない。
(父さんも忙しくしてたけど、ここまでだっけか……?)
学校に行っている時間など、慎一郎が何をしているか知らなかった。自分が騎手になって分かる事が多いからだ。
たまには、家族とゆっくりしたいと思う雄太だった。




