第19章 夏競馬と更なる誓い 504話
東京でのレースの後は遅くなるから寝ていても良いと言っていたのに、帰宅すると春香はリビングで待っていた。
「お疲れ様、雄太くん。鈴掛さん」
「え? 起きてたのか?」
「うん。ちょっとやりたい事があって」
雄太と春香のやり取りを聞いていた鈴掛が声をかける。
「ちょうど良かったな」
「鈴掛さん? 何がですか?」
「どうかしましたか?」
二人同時に自分を見て訊ねる様子が可愛くて吹き出しそうになる。
「ハーティとの事も、もう落ち着くだろうし、俺もそろそろ寮に戻るよ」
「「え?」」
今度は同時に驚いた声を上げる。
「何もそんなに驚く事もないだろ? もうちょい前に戻ろうって思ってたんだけど、ハーティの事があったからな。安田記念が終わったら大丈夫だろうって考えてたんだ」
「そうだったんですか? 鈴掛さん、何も言ってくれなかったから」
「お前も心配だったけど、やっぱり春香ちゃんと凱央が心配だったんだよ」
鈴掛は、雄太の隣で淋しそうな顔をして立っている春香の頭を撫でる。
「鈴掛さん……。私と凱央の為に……?」
「まぁ、そう言っても半分だけだけどな」
「半分……?」
「楽しかったんだよ。ここで、凱央の面倒をみたり、春香ちゃんの美味い飯食って、マッサージしてもらったりしてるのが」
確かにハーティの事があって、元妻や娘の事を忘れる時間が増えた。だが、雄太達と過ごす時間が、何よりの癒しになってたのだ。
「そんな顔しなくても良いだろ? いつでも遊びにくるからな? そもそも直ぐ近くに住んでるんだしさ」
「はい」
薄っすらと涙ぐむ春香の頭を再び撫でると、やはり娘のような愛情を感じた。
「せめて今夜は泊まっていってください。明日の朝ご飯食べてからでも良いですよね?」
「ん? そうさせてもらおうかな」
「はい」
春香が頷くと、雄太と鈴掛は風呂に向かった。
翌朝、春香の手料理を堪能した鈴掛は寮に戻った。
「雄太くん、優勝おめでとう」
「ありがとう、春香」
もう大丈夫だろうと思う気持ちが大きく、春香は雄太にすがりついた。
(……他人の悪意に敏感な春香にしたら、恐怖でしかなかったよな……。俺は、これから先、同じような事がない事を祈るしか出来ない……。ごめんな)
抱き締めた春香の髪を撫でて、心の中で精一杯謝る。
嫌がらせの手紙やパドックの応援幕も、二度と見たくはない。いくら、雄太が気丈であっても、後輩達の中にはヤジですら胸に刺さる子もいるのだ。
自分の事で、たくさんの人に嫌な思いはさせたくないと思った。
(明日、藤波調教師に手紙を渡し終わったら、もうハーティファンの事は、考えるのはやめよう。俺は俺のやるべき事をやるだけだ)
来週には優駿牝馬。再来週には東京優駿が開催される。既に騎乗依頼が来ている。
「あ、そうだ。雄太くんに見て欲しいのがあるの」
「見て欲しい物?」
春香は、雄太の手を引いてパソコンに向かった。
電源を入れて、操作をする春香の後ろに立ち画面を見詰めた。
「へ? これって……」
「うん。私が競馬新聞を買い始めた時からのをね、全部データ化してみたの」
春香がマウスをカチカチとやると次から次と競馬新聞が写る。
「ここをクリックすると……」
(週末だけとは言え、1987年のからのを……?)
春香の残していた競馬新聞だから、雄太の名前に花丸がついている。
「こんな感じなんだけど、どうかな?」
春香が雄太のほうを振り返る。雄太は、画面を凝視していて、春香が振り返った事に気づいていない。
「雄太くん?」
「え? あ……うん」
「どうかしたの?」
「俺には、この作業がどれだけ時間がかかるか分からないんだけど、ありがたくてさ」
雄太は、後ろから春香を抱き締める。
「マジありがとう」
「うん。これからもデータ足していくね」
雄太は春香にマウスの使い方などを教わり、気になる馬のチェックを始めた。
真剣な顔でパソコンに向かう雄太の姿を嬉しそうに見詰めていた春香だった。




