500話
5月13日(日曜日)
(雄太くん……。大丈夫よね?)
春香はテレビの画面を見詰める。胸がザワザワしてしまったのは、パドックが映ったからだ。
パドックにある応援幕を見て、胸がギュッと締め付けられた。
(雄太くん……)
春香が涙をこらえながら見るよりずっと前、1Rの時から雄太だけでなく、他の騎手達もパドックの応援幕を見て複雑な思いを抱えてしまっていた。
(何て思われようと……俺は俺の出来る限りの……精一杯の騎乗をするだけだ)
騎手控え室の隅で、雄太は真っ直ぐに前を見ていた。
騎手は自分のお手馬のライバルと言われる馬にも、騎乗依頼があれば乗らなければならない時がある。それが騎手の仕事なのだ。
金曜日、京都競馬場の調整ルームで純也と梅野に状況説明をした。
「家って……。厄介だな……」
梅野は買ってきたばかりの缶コーヒーをグッと握り締めながら呟いた。
「雄太ん家は防犯対策ガッツリしてるけど、それでも心配になるよな」
「ああ。対策強化はしたけど……」
純也も眉間の皺を深くする。雄太は、春香に心配させまいと大丈夫な振りをしていたが、本当は心配で心配でたまらなかったのだ。
だからといって、『騎手を辞める』と言えば一番悲しむのは春香だと分かっている。
「春香さんの精神的負担を軽くしてあげたいとは思うけどぉ……。俺達に出来る事があるかなぁ……」
「難しいっすね……」
梅野も純也も俯き加減で真剣な顔をしている。
「俺達は、同じような時間にトレセンに行って、同じ曜日に調整ルームに入る……。だから、誰かが見守るとか無理なんだよな……」
「梅野さん。その気持ちだけで充分です。俺だけでなく春香も、きっとそう言うと思います」
雄太はホッと息を吐きながら少しだけ笑った。
「俺、軽く考えてたんですよ……。実は、天皇賞勝った後にハーティのファンからだと思しき手紙があったんですよね」
「へ? 天皇賞の後か?」
「ほら、ソルにも見せたろ?」
「……あっ‼ 思い出した。ハーティに先着しやがって〜みたいなヤツ」
雄太に言われ、純也は少し考えた後、大きな声を出した。
「ああ。あの時は、負けた腹いせの暴言だって思ってたんだよな。でも、そう言う事を言うファンだっているんだって思わなきゃならなかったんだよ」
「まぁ……なぁ……。熱狂的なファンってのは、馬にも騎手にもつくから……なぁ……」
梅野はそう言って深々と溜め息を吐いた。
「そう言えば、梅野さんも脅迫状みたいなの来てたっすよね?」
「あぁ。彼女に色目を使っただの、誘惑しただの……なぁ〜。騎手はパドックでは何のリアクションを起こす事も出来ないのにさぁ〜」
「厄介っすね……」
三人で、深く溜め息を吐いたのが、金曜日の夜の事。
日曜日の東京競馬場のパドックの柵に掲げられた応援幕の所為で、ピリピリとした雰囲気が漂っていた。
『馬泥棒』『強奪する若造に天罰を』『贔屓されたガキ』
罵詈雑言の応援幕が多数あり、騎手だけでなく職員も戸惑った様子だった。『誰が』とは書いていないが、その場にいる鈴掛や藤波は苛立ちを隠せなかった。
そして、雄太の騎乗する2レースのパドックで事件は起きた。
ガシャンっ‼ ガンっ‼
号令がかかり、騎手が騎乗をし周回が始まったタイミングで、大きな金属音がパドックに響き渡った。
(なっ⁉)
雄太の前を歩いていた馬が驚いて立ち上がってしまい、騎手が落馬をしてしまったのだ。他の馬も引き綱を引いている厩務員がなだめたりしなくてはならないぐらいの騒ぎになった。
雄太は手綱を引き、声をかけて落ち着かせようとするが、馬は前脚をバタつかせていた。
馬上からパドックの外を見ると、中年男性が二人逃げ出していた。その後を職員が追いかけていた。
(……まさか、俺を落馬させようと……したのかっ⁉)
怒りが湧きかけたが、馬に伝われば収まりがつかなくなると、深呼吸をして馬の首筋を撫でて必死で落ち着かせようとしていた。




