498話
翌日、調教終わりに、雄太はハーティがいる藤波厩舎を訪れていた。
「藤波調教師」
「どうした、鷹羽くん。あれ? 慎一郎調教師?」
調教師の藤波は、声をかけた雄太の隣に慎一郎がいる事に驚いたようだ。
「ちょっと耳に入れておきたい事があってな。今、良いか?」
「はい? あ、どうぞ」
藤波は慎一郎より年下だが、調教師への転身が早かった。騎手としては後輩ではあるが、調教師としては先輩にあたるのだが、慎一郎も馬作りが上手いと認めている人物だ。
「そ……そんな事が……」
「儂も驚いた。今までも乗り替わりでどうこうはあったが、ここまでだと常軌を逸しているように思えてな」
「確かに……」
慎一郎は、雄太への嫌がらせの手紙の事を事細やかに話した。騎手鷹羽雄太への嫌がらせだけでなく、春香へも影響が出ていると知り、放置出来ないと判断したのだ。
藤波は深い溜め息を吐くと立ち上がり、事務机の引き出しを開けた。そして、手紙の束を取り出し、慎一郎へ手渡した。
「……実は、うちの厩舎宛に……こう言うのが届いてたんです」
藤波から手渡された手紙の束の表書きは、普通の手紙のように見える。
「中を見ても?」
「ええ」
慎一郎が便箋を取り出し、読み始めた。途端に、慎一郎の眉間の皺が深くなる。
「俺も読ませてもらっても良いですか?」
「かまわないよ」
藤波が頷き応えると、雄太は慎一郎から一通手渡してもらった。中から便箋を出し読む。
「……鷹羽雄太をハーティに乗せるな……ですか……」
「乗せるなって言われても、馬主からの指示があった訳だしな。俺も、鷹羽くんの手はハーティに合ってると思った。だから依頼したんだ」
「はい……」
雄太は、自分宛に来た手紙よりは悪意はないとは思ったが、まさかハーティのいる藤波厩舎にまで、こう言う手紙が届いていた事に驚いた。
「今までの儂ならバカバカしいと一蹴していただろうがな」
「慎一郎調教師のおっしゃる事は分かります。俺だって、騎手時代に『何でお前が』とか言われた事が何度かありますから……。ただ、今回の件は少々……否、かなり事が大きいかと」
藤波も、何度か春香を見ている。言葉を交わした訳ではないが、ミナの事件の時も、スタンドで笑顔でマッサージをしている姿も見ていた。
辰野や小園をはじめ、大勢の人間から春香の話を聞かされていた。
(あの人懐っこく癒される笑顔が曇ってしまっているのは……容認出来ない……。しかも、小さな子供がいるのだからな。鷹羽くんも慎一郎調教師も心配だろう……)
雄太は苛立ちを隠せないような怒りを秘めた表情で、便箋を凝視していた。
(冷静で……感情を露骨に顔に出す事が少ない鷹羽くんが、こんな顔をするんだな。……俺に出来る事があるなら、出来る限りの事をしよう。鷹羽くんには、いくつも勝ち鞍を上げてもらってるし、俺自身が鷹羽くんの腕を買ってるんだ)
慎一郎は、便箋を封筒に戻し、藤波を見た。
「勘違いしないでくれよ? 儂は、藤波調教師に何かして欲しくて訪ねて来たんじゃないんだ。まぁ、しょっちゅう……とまでは言わんが、こう言う事はある。あっては困ると言えばそうなんだが」
「慎一郎調教師……」
調教師になってからも騎手の頃と変わらない。良い意味での競馬馬鹿であるが、息子の嫁と孫を可愛がっているのはトレセンで知らぬ人は居ないと噂されている。
「最初に言ったように、耳に入れておいたほうが良いと思ったんだ。レース当日に何かあって驚かれるよりは良いだろうと思ってな」
「そうですね。分かりました。心に留めておきます」
藤波は、いつもより言葉数が少ない雄太をチラリと見た。
「藤波調教師……」
「ん? 何だい?」
「俺、ちゃんとハーティに乗りますから、安心してください。人がどう思ってるかなんて、ハーティには関係ないですから」
「ああ。心配してないさ」
騎手として話す雄太に、藤波は安心したように頷いた。




