472話
雄太と春香は、厩務員達に丁寧に礼を述べると静川厩舎を後にした。
休日で静かなトレセン内をゆっくりと並んで歩いていく。
カームを見てキャウキャウとはしゃいでいた凱央はベビーカーに乗せるとフワフワと欠伸をし眠ってしまった。
「はしゃぎ過ぎて疲れたのかな?」
「だろうねぇ〜。キャッキャしてたもんね」
幸せそうな顔で眠っている凱央を起こさないように、小声で話ながら坂を下っていく。
「凱央って、馬が好きなのかな。凄く楽しそうだったな」
「かも知れないね。馬って大きな生き物だし、驚いたりするかもって思ったんだけどなぁ〜」
「触りたいのか、手を伸ばしまくってたしな。まだ触らせる訳にはいかないけど」
カームは大人しいほうではあるが、馬の噛む力は強く、大人でも出血などするぐらいではあるので、まだ触らせる事は出来ないと思っている。
「調教師も厩務員さん達も、カームの事を大型犬って言ってるけど、やっぱり馬だし、歯だって大きいもんね」
「春香は舐めまくられるのが通常だけどな」
「あはは。今日はリンゴ食べてから舐められたから、リンゴの匂いもしたなぁ〜」
しばらく凱央のほうを見ていたカームは、舐めるのを忘れていたと言わんばかりに春香を舐め出したのだ。
「カームは春香を舐める物だと思ってるのかもな」
「えぇ〜。それは……どうなんだろ? カーム的に美味しいとか思われてたりするのかな?」
「かもな」
そう言って雄太は楽しそうに笑った。
恋人であった時から、春香をトレセンに連れて行き馬に会わせた。その時に、馬が嫌がったりしたら、その後に対面させる事はなかっただろう。
調教師や厩務員の妻であっても、馬と対面する必要もない。ましてや初対面の時は、春香は雄太の恋人であったからだ。
(春香が馬と会う事を嫌がったりしなかったし、カームも懐いた……。カーム以外の馬も、春香を見て耳を絞ったりしてないもんな。春香は馬に好かれるんだろうな)
競走馬は乗馬教室の馬のように性格が穏やかな馬ばかりではない。中には気性の激しい馬と言われている馬もいる。だが、そんな馬でも春香に対して耳を絞ったりはしていない。
乗馬教室の小野寺は、春香を騎手にスカウトしたいぐらいだと言ってたけれど、辰野や静川は、厩務員にスカウトしたいと言っていた。
(春香を騎手にとか、厩務員にとか……。春香は馬にも人にもモテモテなんだもんなぁ……)
ベビーカーを押しながら歩く愛しい妻を見詰める。
カームと触れ合った後、顔を洗ったから、前髪が少し濡れている。
いつも通りカームに盛大に舐められ、首を絡めるように甘えられている姿は、厩務員達も笑いを止める事が出来ないぐらいだった。
「た……鷹羽くん。奥さん、ぐりんぐりん振り回されてるけど……」
「カーム。春香さんが転ぶから程々にしないと駄目だぞぉ〜」
「翻弄されてるって言うのは、こう言うんだろうなって感じだな」
雄太もハラハラするぐらいに、春香の体は揺れていたが、それでも春香は楽しそうに笑っていた。
「カーム、体がツヤツヤしてたね」
「そうだな。調子が良いとあんな感じにピカピカになるんだ」
「雄太くんが菊花賞獲った時も、あんな感じだったよね?」
「ああ。あの時も絶好調って感じだったからな」
週末G2に出走をするのは決まっている。その後の調子を見て、出来れば天皇賞・春に出られればと静川は言っていた。
(春香に言うのは決まってからだ。期待させるだけさせて、出られなかったらガッカリさせちゃうもんな。俺が見たいのは春香の笑顔だから)
「あ、雄太くん。土筆だよ。石垣の隙間にヨモギもあるよ。春だね〜」
「土筆は分かるけど……ヨモギって、これ? 俺、雑草と区別つかない……」
「ふふふ。草餅とかに入ってるヤツだよ」
春香は、ヨモギを摘むと香りを楽しんでいた。
「良い匂いだよ」
「あ、本当だ。草餅の匂いがする」
「春の匂いだね」
「ああ」
雄太と春香の頭上にある桜の蕾も大きくなっていた。




