471話
3月27日(月曜日)
春香は鼻歌まじりで凱央のオムツを替えている。
(本当、トレセンに行くの楽しそうなんだよな)
雄太は、シューズクローゼットからベビーカーを出して広げ、リビングに戻ると春香の姿に笑みが漏れた。
週末の日曜日、カームとG2に出場が決まっている。そのカームに会いたいと言われ、雄太は静川に許可をもらっていた。
「凱央。お馬さんに会いに行こうね」
「アブゥ」
少しずつ暖かくなり、凱央は外に行く事が増えていた。散歩に行くと、夜しっかりと寝る事が増えて、春香の寝不足も少し解消されていた。
「カーム」
雄太が声をかけるとカームは耳をピコッと動かして、こちらをジッと見る。そして、前脚で地面を掻き、早く撫でろと催促を始めた。
「珍しく鷹羽くんに催促してるのか?」
「否、奥さんを見てるんだろ」
厩務員達も慣れたもので、ゲラゲラと笑いながら、ベビーカーの邪魔になりそうな物を避けてくれていた。
「あ、ありがとうございます。お邪魔します」
雄太は休みではあるが、交代で世話に出てきている厩務員は仕事中なのだ。
顔見知りではあるが、仕事場に入れてもらうのだと言う気持ちは忘れてはいけないと、春香は差し入れを手渡した。
「いつも、ありがとうございます」
「いえ。大した事は出来ませんから」
そう言って春香は振り返る。
「カーム。良い子にしてた?」
春香が声をかけると、カームの催促が激しくなる。その様子に、雄太は笑いがこみ上げる。
「春香。凱央は見てるから、あの大きな息子のご機嫌をとってくれ」
「あはは。じゃあ、凱央をよろしくね」
ベビーカーのハンドルから手を離して、カームの傍に近づくと鼻面を撫でてやる。
「ふふふ。今度はG2に出るんだよね。頑張るんだよ?」
初めて会った時から変わらず、全身で甘えてくるカームは、春香にとっても特別な存在だった。大きな体であるのに、優しい目をしていてすり寄ってくる。
そのカームも六歳になり、近い内に引退と言う話も出るだろう。甘えん坊なところを見ていると、そんな感じはしないのだが、G1も獲っているから、種牡馬入りするだろうと慎一郎も言っていた。
「今日はね、カームにリンゴを持ってきてあげたんだよ。静川調教師にも、許可もらってあるからあげるね」
春香は鼻面から手を離して、ベビーカーの所へ戻った。背面のポケットからタッパを取り出すと蓋を開ける。
中のカットリンゴを取り出し、カームに近づくとカームはリンゴの匂いを嗅ぎ出した。
「食べるかな?」
春香がカームの口元にリンゴを持っていくと、パクリと口に入れた。
シャリシャリと良い音をたてて食べるカームの口元からヨダレが流れ出ている。
「美味しい? 凄いヨダレだね」
カームはリンゴが気に入ったのか、首をフリフリして催促していた。
雄太は凱央を抱っこをして、カームを見せていた。
「ほら、凱央。馬だぞ」
「アバァ……キャウ……」
「凱央は馬好きっぽいな」
興味津々で手を伸ばしている凱央を見て雄太は目を細めた。
(俺もこんなだったのかなぁ……。馬を怖がっていたとか聞いた事ないけど)
「アゥ〜ダァ」
「ん? 近くで見たいのか?」
凱央が一生懸命に手を伸ばしている。少しだけ、カームの近くに寄ってみると、凱央の目がキラキラしたような気がした。
春香が凱央の声に振り返る。
「凱央、カームが気になるみたいだ」
「本当、興味津々って感じだね」
カームも凱央をジッと見ている。耳を絞っていない様子からして、赤ん坊の姿や声は嫌ではないようだ。
「ダゥ……ウキャ……」
「凱央。パパの相棒だぞ」
「アゥアゥ」
雄太は、カームが首を伸ばしても届かない所で立ち止まる。
「大きいだろ? 凱央の何倍だろうな」
「ダァアゥ」
凱央が嬉しそうに手を伸ばしている姿を見ているカームが優しそうに見詰めている気がして、雄太は自分や春香だけでなく凱央にも特別な馬の気がしていた。




