426話
「おはよう、雄太くん」
「春香、おはよう。あ、豚汁? 出汁巻き玉子の匂いもする」
ドアを開けるとリビングにも良い香りが漂ってきていた。
「うん。冬は体を中から温めないとね。味見してくれる?」
「ああ」
夜中にうなされて、春香と話した時よりも、ほんの少しだけ気持ちが楽になった気がしていた。
週末になりレースに出ないと、はっきりとは分からない。レースに出ても分からないかも知れない。スランプかも知れないと思ったのが初めてだからだ。
「うん。美味い」
「良かった」
(春香は夜中の事を何も言わないでいてくれる……。プレッシャーかけちゃいけないって分かってくれてるんだろうな……)
そんな事を思いながらも、実質的には本当に穏やかな朝だった。
味噌汁の味見をした後、ベビーベッドを覗くと凱央が起きていて雄太を見ていた。
「凱央、おはよう」
「アバァ〜」
「泣かずにいるんだな。良い子だぞ」
凱央は雄太をじっと見上げながら、拳をフリフリしていた。
「手を舐めたりしてないって時は、お腹はいっぱいなんだっけ?」
「うん。あ、雄太くん。凱央のほっぺたをツンツンってしてみて」
「ほっぺた?」
雄太は、そっと指を伸ばして、優しく優しくツンツンとしてみる。
「あ……笑った……?」
「ふふふ。なんかね、今朝からほっぺたをつつくと笑うようになったの。つついて笑うから新生児微笑じゃないって思ってるんだぁ〜」
「新生児微笑って、生後二ヶ月ぐらいまでだっけ? あれも可愛いんだけど、このほっぺたつついて笑うのは良いよな」
「あんまりやると嫌がって泣くかも知れないけどね」
大人でも、しつこくすれば嫌だろうなと思った雄太は、凱央の頭を撫でた。
「凱央を泣かせる事はしないからな?」
「ウバァ〜」
凱央はじっと雄太を見上げながら、また小さな拳を振っていた。
ゆっくりと朝食をとり、凱央をかまっていながら雄太は、洗濯物をたたんでいる春香を見ていた。
(凱央の笑顔って、春香と似てるよな。目元が春香似って言うのもあるのかなぁ?)
洗濯機が止まったブザーが聞こえ、春香が立ち上がった。その姿を凱央が目で追っている気がした。
(新生児って、あんまりはっきり目が見えてなかったんだっけ? もしかして母親の……ってか、母乳の匂いを追ってるのかな? いやいや、犬じゃないんだから、匂いを追うとかないよな)
カタン、バサッ、バサッ
洗濯物を干している音が聞こえる。外に干しても乾かないからと言う理由から、雄太の寝室として使っている部屋の隣の空き部屋に洗濯物を干すようにしている。
春香が独身時代からも、冬場や梅雨時期は洗濯物を干していた部屋だと言っていた。除湿機と扇風機を使っていて、慎一郎が借りてくれた家にサンルームがあるのが嬉しいと言っていたのを思い出した。
新生児である凱央だけでなく、小さな子供がいれば汚れ物が増えるだろうし、直ぐ洗濯をして次々に干す為にも、新居にもサンルームを造る事にしたのだ。
(もう少しで家も完成する……。そうしたら、もっと頑張ら……あ)
また、勝たないといけないと言う事に囚われていると感じた。
(俺、こんなに切り替え下手だったんだなぁ……。デビューしたての頃、負けた事を引きずってて、鈴掛さん達に注意されたのを忘れたのか? 進歩しろよ、俺)
「フ……フャァ〜」
難しい顔をして考えていると、それまでご機嫌だった凱央がグズりだした。
「ん? あ……」
もしかして、自分のマイナスな考えが凱央に伝わり泣かせてしまったかと思い抱き上げた。
「ごめんな、凱央」
凱央の泣き声で、春香が戻ってきた。
「そろそろ、おっぱいの時間かも」
「え? あ、そうなのか?」
よく見れば、凱央は拳を口元にあてて、吸うような仕草をしていた。
自分が泣かせた訳じゃないと分かった雄太は、苦笑いを浮べながら、オムツを確認した。
(凱央をかまう時は、凱央に集中しなきゃな)
父親として反省した雄太だった。




