425話
「一日に乗鞍が二つとか三つの人だっている……。一日に勝ち鞍がない人だっている……。一勝出来ただけでもありがたいんだって思わなきゃならないんだってのは……分かってる……。でも、もっと勝ちたいんだ……。傲慢かも知れないけど、一勝で満足なんて出来ない……」
他人と比べてどうとか言うのは、雄太が嫌っていた事だった。自分の出来る事を精一杯やるのが正しいと思っていた。
それなのに勝ち鞍が減った事で、人と比べている自分が情けなく思えて、声が震える。
「うん。今の雄太くんは、ちょっと迷い道に入り込んでるんだよ。一生懸命に正しい道に行こうとして、今いる道が正しいのかも間違ってるのかも分からなくなってるんだよね? でも、私は雄太くんが間違った道に行くとは思わないよ」
「……そう……かな……?」
泣きそうな目で春香を見詰める雄太に、またキスをする。
「大丈夫。雄太くんは迷っても、必ず正しい道を選ぶ事が出来るって、私は信じてる。今は迷っても良いんだよ。悩んでも良いんだよ。だって、雄太くんだって完璧じゃないんだから」
「完璧じゃなくても……良いのか……な……?」
春香はじっと見詰めながら、深く深く頷いた。
「騎乗はね、やっぱり危険だから完璧に近くても良いと思うの。でも、100%完璧な人間なんていないでしょ? 雄太くんは、人間的にも、騎手としても100%を求め過ぎてて、壁にブチ当たったんじゃないかな?」
「壁……。そうなのかも知れない……」
「雄太くんなら乗り越えられるよ。もし……一人じゃ無理なら私が引き上げてあげる」
(あ……)
それは、春香と付き合う前に思った事だった。
『市村さんが越えられない壁を取り除くなんて、俺には無理だよな……。だったら、俺が手を取って引き上げてやれば良いんじゃないのか?』
(俺……俺が壁を乗り越えられない春香を引き上げてやるんだって考えてた……。なら……)
優しく微笑む春香を思いっきり抱き締める。
(俺が……春香に引き上げてもらっても良いんだ……。男だから……とかじゃなく、春香は俺の妻なんだから……。春香は、情けない俺を見ても呆れたり、見限ったりする事はない……。そんな女じゃない……)
柔らかく温かい、腕の中にスッポリおさまる小さな愛しい存在。
(本当……春香って強いよな……。何で、俺と同じ事がサラッと言えるんだか)
守ってやりたいと思っていた春香が強いのだと、何度思わされただろう。
「ありがとう。直ぐってのは無理かも知れない。けど、俺やってくよ。俺なりの競馬を」
「うん。急には無理だって言うのは、私だって分かってるからね? 私だって、騎手の妻なんだから」
「プッ」
「何で笑うのぉ〜っ⁉」
腕の中でジタバタとしながら春香が不平を漏らす。その様子が可愛くてたまらなくなる。
「俺が教えられた騎手の妻ってのは、それなりに気が強くてドッシリ構えてないと駄目って……プッ」
「んもぅ〜っ‼ 私、真剣なのにぃ〜」
頬を膨らませている春香は、やはり可愛いと思ってしまう。
(こんな可愛いのに、何て心強いんだろう……)
ちゃんと騎手の妻の心得を身に着けているのに、出会った頃と変わらない可愛さに心が温まる気がした。
「ありがとう。大好きだ、春香」
「私も雄太くんが大好き」
恋人同士のように抱き合う。何も言わずに抱き合っているだけ。
(あぁ……。癒される……。春香だ……。俺の大好きで……大事な……春香だ……)
無邪気に笑う春香を守りたいと思い続けてきた。春香を金づるとしか思わない実親からも、世間の冷たさや理不尽さからも守りたいと思っていた。
(その春香に、俺が癒されてるんだよな……。頼ってる部分もあるんだ……。恥ずかしいとか思わなくても良い……。これが俺と春香の夫婦の形なんだよな。誰に何を言われても、俺達の形だって思って守っていこう。これからは凱央も一緒に……。俺達の家族の形を……)
まだ、悩みが解消された訳ではないが、微かに光が見えた気がした雄太だった。




