424話
(春香の寝室まで、うなされてる声が聞こえてたんだな……)
春香と凱央が寝室にしている部屋は元々春香の寝室だった所。雄太が寝室にしている部屋は、元マッサージ部屋だった所で春香達の寝室からは一番離れている。
途中にはリビングもあり、各部屋のドアもあるというのに聞こえたとなると、かなりの声が出ていたのだろうと思った。
(俺……どれだけ……)
春香が凱央にするように、背中をトントンと叩きながら優しく囁く。
「大丈夫、大丈夫だからね? 私、傍にいるから。凱央もね」
「……え?」
「雄太くんが迷子の仔犬みたいに見えて……。もし、話せるなら話して? 無理には訊かないから……」
「ありがとう……、春香……」
抱き締めた腕の中の春香の優しさと母親のような心強さに胸が締めつけられた。
泣きそうになる気持ちを押さえながら、少しずつ話し始めた。
「俺……スランプって感じで……。勝ちたいって言うか……勝たなきゃって思ってて……焦ってて……。でも……何やっても……勝てないんだ……」
「うん……」
「俺が勝てなくなると、春香が悪く言われるのが嫌で……。家を建ててるのも、何か言われそうで……。勝ちたいのに勝てなくて……」
話す順番も、言っている事も支離滅裂かも知れない。春香に伝わるだろうかと不安になりながらも、雄太は少しずつ話した。
「こんな風にプレッシャーとか……感じた事があったかってぐらいに追い詰められてて……。押し潰されそうな……そんな感じがあったんだ……。どうして良いんだろうって……」
そう言われた瞬間、春香はギュッと抱き締めた腕に力を込めた。
「うん。ありがとう、雄太くん」
「え?」
思いがけず言われた『ありがとう』の意味が分からず、雄太は春香の顔を覗き込んだ。
「プレッシャーを感じるぐらいに、頑張ってくれてありがとう」
「春……香……」
春香は顔を覗き込んでいる雄太に笑いかけた。
「でもね、そこまで自分を追い詰めなくて良いよ? 私、強くなったんだから大丈夫。世の中の人達に何を言われても平気だよ?」
「でも……さ……」
「悪く言う人は何をしても言うんだよ。良い調子だったとしても、何かしら言うんだよ。だから、誰かに何を言われるとか、そんな事を気にしないで雄太くんらしい騎乗をして欲しいな」
春香はそう言って、そっと雄太の胸に顔を寄せた。
「俺らしい……?」
「うん。変な言い方になっちゃうけど、私や凱央の事を忘れて、競馬に……馬に真剣に向き合うのが、騎手鷹羽雄太でしょ? 外野の声を突っぱねて、何も恐れないで、騎乗馬と一着でゴール板を駆け抜ける事だけ考えてて欲しい。何を言われても自分を突き通して欲しい」
雄太は、競馬場に入った時に何を考えていただろうかと、必死で思い出そうとした。
(何を考えてたっけ……? あれ……? 何も思い出せない……)
「焦らなくても良いよ。勝てない時だってあるって、私だって知ってるから。たまたま、勝てない時が重なっただけって思えないかな?」
雄太のドキドキとした心臓と同じぐらいに、春香の心臓もドキドキとしていた。
(私は、何もしてあげられない……。スランプだって言われても、どうしてあげたら良いのか……何を言ってあげたら良いか分からない……。何が正解で……何が間違ってるのか分からない……。こんな私が……騎手鷹羽雄太の傍にいても良いのかすら分からなくなりそう……。でも……)
春香は膝立ちをすると、雄太の頬を両手ではさみキスをした。そして、雄太をじっと見詰める。
「乗鞍全部勝てる訳じゃないんだって、雄太くんは知ってるよね? だけど、勝とうって思ってるんだよね? 自分や私の為だけでなく、馬主さんや調教師や厩務員さん、たくさんのファンの為にも。それが重いって感じたなら、そこから私を除いてくれても良い。少しでも、負担軽減になるならそれで良い。雄太くんが雄太くんらしい騎乗をしてくれるなら……それで良い」
そう言い切ると、もう一度キスをした。




