391話
風呂から出た春香がバスタオルで体を拭き、ホッと息を吐いた時だった。
(ん? あ……)
腹に違和感を感じた春香は素早く体を拭きあげ、身支度を整えた。そして、脱衣所から里美に声をかける。
「お母さぁ〜ん」
「どうしたの?」
ドアを開けた里美が訊ねる。
「今、ギリッて感じがしたの」
「え? 破水は……してないわね」
「やっぱり陣痛かな?」
「そうね。髪乾かしちゃいなさい。病院に電話しておくから」
「うん。お願い」
里美はダイニングに戻ると、重幸の自宅に電話をした。直樹は、春香が里美を呼んだ時点で、理解が出来たようだ。
「お義兄さん、里美です」
『陣痛、きたのか?』
重幸は里美からの電話にピンッときたようだ。
「ええ。ギリッとした感じだったようです。初産なんで、まだ時間はかかるかと思いますが、一応連絡をと思いまして」
『そうだな。破水はまだだな?』
「まだです。入浴は済ませたので、軽く食事をさせようかと思ってます」
『分かった。病院の方に連絡はしておくから。何かあったら、病院の方に電話してくれ。俺も準備をしたら病院で待機するから。まぁ、まだまだだとは思うが油断しないようにな?』
「はい。お願いします」
里美が受話器を置き、振り返ると春香が寝室に使っている部屋から、入院用に準備したバッグを直樹が運び出していた。
「直ぐ……じゃないよな?」
「ええ。とりあえず食事を済ませましょう」
「分かった」
髪を乾かして、三つ編みにした春香がダイニングに入ると、直樹がお茶を手渡した。
「お父さん、ありがとう」
「何時間かかるか分からないから、ちゃんと飲んで食べような?」
「うん」
里美は、ご飯をよそうと春香に笑顔で差し出す。
「腹が減っては戦はできぬって言うしね。ほら、直樹もしっかり食べてよ? しばらく春香の作る食事食べられないんだから」
「お? そうだな。ちゃんと味わって食べないとな」
三人は、陣痛が本格化する前にと腹ごしらえをして、里美は店に『臨時休業』と貼り紙をしに行き、直樹は春香の荷物を車に運び込んだ。
春香は、もう一度自宅の火の元と戸締まりを確認した。
(よし。これで大丈夫)
「春、忘れ物はないか?」
「うん。大丈夫」
直樹は、ふいに春香の頭を撫でる。
「お父さん?」
「大きくなったな、春」
「え? なぁに?」
直樹も里美同様、出会った頃の春香を思い出していた。
ハサミで雑に切られた丸坊主に近い髪が悲しくて、引き取られた直後はバンダナを着け隠していた。
「春、髪を伸ばそう。そうだな、着物を着た時に結えるぐらいに」
「私……似合うかな?」
「似合うさ」
直樹の提案で髪を伸ばし、里美が丁寧に手入れをしてくれた美しく長い髪が春香も大好きだった。
それを理不尽にもミナに切られ、傷を負わされた春香が今笑っている事が直樹は何より嬉しかった。
「何でもないよ。さぁ、行くぞ」
「うん」
駐車場に着くと里美がエンジンをかけて車を暖めていた。
「じゃあ行きましょうか」
「うん」
三人はドライブにでも行くかのようににこやかに病院へと向かった。
「陣痛はどんな感じだ?」
「んとね、20分間隔ぐらいかな?」
「そうか。まだまだだな」
「うん。あ……」
ギリギリッとした痛みが春香の腹に走った。
里美が冷静に腕時計を見る。直樹は、チラチラと横目で春香を見詰めた。
「ふぅ……」
「15分の20秒ってところかしら」
「あれ? 早くなってる。20秒かぁ……。痛い時って長く感じちゃうんだよね」
しみじみと言う春香を、信号で車を停車させた直樹が心配そうな顔で覗き込む。
「そんなに心配しないでよ、お父さん」
「ん〜。こう言うのは男には分からんからな」
「うん。でも、お父さんとお母さんが傍にいてくれるだけで心強いから」
「そうか」
春香の言葉に、直樹も里美もじんわりと涙が浮かぶ。
(春を引き取って良かった……)
(春香の親になれて良かったわ)
それぞれの思いを乗せた車は、重幸の待つ病院へ着いた。




