390話
「お母さん、閉店作業……あれ?」
「どうしたの、春香」
「うん……。何かピリッて……」
「え? 陣痛きたの?」
閉店作業を手伝おうと店のドアを開けた時、一瞬腹に軽い刺激があり春香は立ち止まった。里美が春香に近付いて、腹に手を当てる。
「ん……。ちょっとだけだったし、違うのかな?」
「そうね……。まぁ、初産は陣痛が始まっても時間がかかるものだし。閉店作業は良いから、お風呂に入っちゃいなさい」
「お風呂?」
「もし陣痛だったら、しばらくお風呂には入れないんだから、よ」
「あ、うん。じゃあ、そうするね」
「階段には充分気を付けるのよ?」
「はぁ〜い」
笑顔で店を後にした春香の背中に、引き取ったばかりの痩せっぽちで表情が固かった春香が重なる。
(いよいよなのかしら。泣きそうな顔で幸せそうな親子連れを見ていた春香が母親になるのね……)
夜中に飛び起きて泣いていたのも、施術の頻度が高過ぎたのか熱にうなされていたのも、ついこの前のように思い出される。
(ふふふ。雄太くんにデートに誘われた事を戸惑っていたのが、昨日のように思えるわ)
ガチャ
ドアが開いて直樹が顔を出した。
「里美。春が風呂に入るって慌ててたんたが、何かあったのか?」
「ええ。お腹がピリッとしたって言うから、今の内にお風呂に入っておきなさいって言ったのよ」
「じ……陣痛きたのかっ⁉」
里美の説明を聞いて、直樹がアタフタとし始める。
「まだ判断出来ないわ。落ち着いてよ、直樹」
「そんなノンビリ……。ああ、そうだな。初産だしな……。けど……」
何度も天井……と言うより、二階の自宅の方を見て、直樹はブツブツと呟く。
「心配なら私が家に戻るわ。直樹は、閉店作業済ませちゃって」
「ん? ああ、そうしようか。いざって時に俺じゃあ……な」
「ちゃんと戸締まりしてよ? 自分の事で仕事を疎かにしたら、春香に怒られるわよ?」
「分かった」
閉店作業を始めた直樹を見て、里美は二階の自宅へと戻った。
(ん……。陣痛って、もっとギュ〜ッて感じじゃなかったっけ? 体験談読んだだけだから分かんないな……。けど、お母さんは陣痛って聞いたし、陣痛なのかな?)
ゆっくりと風呂に浸かりながら、春香はそっと腹に手を当てた。
(そう言えば、今朝起きた時にポコポコってしただけで、その後は動いてなかったな。出産前には胎動が減るんだよね? もし、今日とか明日に産まれるんだとしたら、雄太くんはいない……)
調整ルームに行く時の雄太の笑顔がよみがえる。妊娠したと伝えた時、うっすらと涙を浮かべながら喜んでくれた雄太。皆には内緒だと決めたから、ベビー用品を買いに行く時に変装をしていた姿に何度も吹き出しそうになっていたのが記憶に新しい。
里帰り出産の方が良いからと、通勤に時間がかかるのを受け入れてくれた。その気持ちは春香だけでなく、直樹達も喜んでくれた。
(私、本当に幸せだよね。雄太くんに大切にしてもらえて)
コンコン
「春香。大丈夫?」
「お母さん。もう、閉店作業終わったの?」
風呂場の扉の向こうから、里美が声をかける。春香は、閉店作業をしていたはずの里美が家に戻ってきた事に驚いた。
「直樹がやってくれてるわ。アタフタしてたから、ちゃんとするように釘は刺しておいたから大丈夫よ」
「うん」
雄太同様、仕事には真面目な直樹だから心配はないとは思う。
「夕飯、食べられそう?」
「大丈夫だと思う」
「そう。じゃあ、しっかり温まりなさい」
「はぁ〜い」
夕飯の準備は、既に終えてある。直樹の好物のきんぴらごぼうや豚汁やほうれん草のおひたし。里美の好きな鰤の照り焼きなどを作っていた。
(お風呂を出たら、夕飯を食べて……。入院する荷物の確認をして……)
雄太がいない不安はあるが、騎手の妻なのだから甘えた事は言っていられないと思い、結婚指輪を見詰める。
(雄太くん……。私、頑張るね)
雄太に思いが通じたら良いなと思いながら、春香は風呂を出た。




