388話
春香のマンションで暮らし始めて、少し早起きしなければならなくなったが、大して負担にならないなと雄太は感じていた。
調教終わりに自宅に寄り留守番電話の確認をしたり、春香からもってきて欲しい物があると言われたら持って行く。その程度だった。
調整ルームに入っても、防犯対策バッチリのマンションだし、雄太がいない日は直樹達の家に春香はいるので安心だった。
「じゃあ、行ってくるな」
「いってらっしゃい。気を付けてね」
真っ暗な冬の早朝。雄太は静かにマンションを出てトレセンへと向かう。
(もう、いつ産まれても大丈夫なんだよな……。重幸さん、『いつでも、準備OKだぞ』って言ってたし)
騎手仲間や調教師や厩務員だけでなく、パート女性達も、春香の出産が待ち遠しいようだった。
調教終わりの雄太に声をかけてくる人達が多い。
(本当に大勢の人が待っててくれてるんだよな)
春香との関係を追いかけ回していたゴシップ誌等がスクープ狙いで記者をうろつかせているのは毎度の事だった。
「産まれたら、ちゃんと報告しますから。病院に押しかけたりしないでくださいよ? もし、病院に迷惑かけたりしたら、二度と取材には応じません」
はっきりと言った雄太に、一部マスコミは『生意気』だと言う風に捉えたようたが、雄太の記事を載せると売り上げが伸びるのだから、変に関係を拗らせたくないと言うのが本音だろう。
「雄太ぁ〜」
「ソル、打ち合わせはもう終わったのか?」
辰野の厩舎の馬の騎乗依頼をもらって話していた純也が、雄太の車に近付いてきた。
「ああ。終わったぞ」
「そっか。ちょうど良かった。ソルに春香か……」
「クッキーっ⁉ 春さんのクッキー持ってきてくれたのかっ⁉」
スイッチが入ったかのようにダッシュした純也が、雄太に詰め寄った。
「お前……。最後まで言わせろってぇ……」
「へ?」
「良いけどさ」
我慢出来ず、雄太は笑い出す。雄太は車の後部座席に置いていた大きな紙袋を取り出した。
「ほら、春香からだ」
「サンキュっ‼ 春さんのクッキー食いたかったんだよな」
純也は、春香の手作りクッキーを大切そうに抱き締める。
「春さんのマンション、調理器具あんまないんだろ? 無理言って悪かったかなぁ〜?」
「ん? ああ、オーブンとかはないけど、東雲の家にはあるからな」
「そっか。ありがとうって伝えといてくれよな」
「伝えとく」
純也だけでなく、鈴掛達も春香は直樹達の家で生活をして、雄太は実家に戻ると思っていたようだった。
春香のマンションに移った翌日の調整ルームで話した時に驚かれた。
「赤ん坊って、腹が減ったり、オムツを替えて欲しかったりで時間帯も無視で頻繁に泣くんだ。確か授乳は二時間おきだったかな? だから、てっきり別居するんだと思ってたぞ」
子育て経験者の鈴掛は目を丸くしていた。
「春香のマンションは部屋が三つあるから、産まれたら部屋は分けますよ? 春香が、そうしないと俺の仕事に影響出るからって心配してましたし」
「雄太は、春香さんと離れたくないんだよなぁ〜」
梅野がニコニコと笑いながら言う。
「勿論ですよ。もし、夜泣きが酷くて、一緒のマンションでもキツいなって事になったら、その時はまた考えますけど」
「そうか。臨機応変ってヤツだな」
色々と考えているのは、何事にもしっかり計画をたてる雄太の性格だからだろう。
騎乗する時も何パターンも考えている事からもよく分かる。
「でさ、男か女かは、まだ内緒かぁ〜?」
「内緒です。何でそんなに気になるんですか」
梅野はワクワクとした顔で訊ね、雄太は苦笑いを浮かべながら答える。
「俺の嫁の話だしなぁ〜」
「梅野さん……。まだ諦めてなかったんですか……」
「当たり前だぞぉ〜? 俺のマイスイートハニーかも知れないんだからなぁ〜?」
梅野のセリフに三人は爆笑する。
春香の出産予定日が近付いている事に、皆ワクワクし、無事の出産を祈っていた。




