382話
カームが帰厩したと雄太に教えてもらった春香は、翌日トレセンへ行った。
「カーム〜」
春香が声をかけると、厩務員がビックリするような勢いでカームは馬房から首を出す。
「カーム……。お前、本当に中に誰か入ってんじゃないのか……?」
「大丈夫ですか?」
カームの鼻面が担当厩務員の帽子を吹っ飛ばした。春香は足元に飛んできた帽子を拾い、寝藁のクズを手で払い手渡した。
「すみません、春香さん。まったく……。2000メートル走って、さすがに疲れてるって感じだったのに、春香さんが呼んだ時の動きは何なんだよ」
「あはは……」
カームは首を上下に振りながら、早く撫でろと催促をする。厩務員は苦笑いを浮べながら帽子を被り、人参を出して渡してくれた。
受け取った春香はカームの鼻面の前に人参を差し出してみると、嬉しそうにバリボリと人参を齧りだした。
「カーム、よく頑張ったね。格好良かったよ。偉い、偉い。良い子だねぇ〜」
「春香さん、カームの頑張りを褒めてやってくれてありがとうな」
「静川調教師」
静川は、ニコニコと笑顔で歩いてきた。
「本当にカームは春香さんにベッタリだな。春香さんといる時のカームは大型犬のようだとか言われるのが分かる」
「ふふふ。一生懸命頑張ってくれたんだから、少しぐらい甘やかしても良いですか?」
「ああ、構わないよ。春香さんに疲れを癒してもらえたら、次も気持ち良く走ってくれそうだしな」
静川もカームを撫でる。春香は静川の『次』と言う言葉に驚いた。
「次? もう次が決まってるんですか?」
「ああ。ジャパンカップと有馬記念に出せたらなと思っているんだよ」
「ジャパンカップって海外の強い馬と走るレースで、有馬記念は年末ですよね?」
「ああ。海外の強豪が日本に来るんだ」
「カームが海外の馬と……」
大きな甘えん坊のカームがジャパンカップに出ると思うとワクワクする。
「そう言えば、春香さんの出産も年末だったな?」
「ええ。カームのレース見られるかなぁ〜」
カームはスリスリと春香に鼻面を寄せる。気付いた春香は手を伸ばして撫でてやると、カームは嬉しそうに目を細めていた。
どんどんと冬が深まり、朝晩は息が白くなる季節がやってきた。
雄太は『結婚して、子供が出来たから成績が落ちた』と言われないように気合いを入れて、トレーニングを重ねていた。
(好き勝手に言うヤツがいるのは分かってるけど、俺の事を言われると春香が傷付くから嫌なんだ。だから、目一杯頑張らなきゃな)
「ただいま、春香」
「雄太くん。おかえりなさい」
帰宅した雄太は大きなビニール袋を手にしていた。
「これ、差し入れだって」
「大きな白菜〜」
「中にキウイフルーツも入ってるぞ」
「うわぁ〜。嬉しいなぁ〜」
相変わらず、たくさんの人達が雄太に野菜や果物を持たせてくれた。
「体を冷やさないようにしてくださいって」
「うん。皆さんの気持ちが温かいね」
「そうだな。この白菜は何にしよっか? やっぱり季節柄鍋だよな」
ビニール袋からはみ出すぐらいの大きな白菜。鍋にしても余りそうだ。
「えっと……水炊き……キムチ鍋……ミルフィーユ鍋……」
「あ、ミルフィーユ鍋が良いな。材料ある?」
「うん、出来るよ。豚肉あるし〜」
「じゃあ、頼むな。俺、風呂入ってくる」
「しっかり温まってね」
「ああ」
雄太は、少し熱めの湯に浸かりながら、体を伸ばしほぐしていた。冷えて筋肉が固くなっているような気がしたからだ。
(後残ってるG1は、菊花賞……エリザベス女王杯……マイルチャンピオンシップ……ジャパンカップ……朝日杯3歳ステークス……阪神3歳ステークス……有馬記念……か。一つでも多く騎乗依頼をもらって、一つでも多く勝ちたい……)
カームも、もう五歳。競走馬として走れるのは、後数年しかない。カームの成績なら種牡馬になれるだろうから、後一年か長くても二年だろうと思う。
雄太にとってカームは特別な馬になっていた。




