380話
10月29日(日曜日)
東京競馬場では天皇賞秋が開催される。朝から家事をしっかりし終えて、テレビの中継が始まる前から、春香はワクワクとしながら待っていた。
春香の手には、買い物のついでに買ってきた青と紫のリボンで作ったポンポンが握られていた。
「雄太くん、カーム。頑張ってね。目一杯応援するから」
テレビの中では、カームがキリッとした顔でパドックを歩いていた。鞍上の雄太もいつも通りで安心する。
(きっと、今の雄太くんの頭の中はレースの展開とかだけなんだろうな。そんな雄太くんも格好良い……)
結婚しているのに、馬上の雄太を見るたびに恋に落ちるような気がしていた。
木曜日の調教終わりにも、雄太は静川厩舎の馬房に行きカームに声をかけていた。
「カーム、天皇賞頑張ろうな。お前の大好きな春香も応援してくれるんだから、精一杯やろうな」
雄太が『春香』と口にすると、カームは耳をピンッと立ててキョロキョロと見回していた。
「春香は来てないぞ?」
雄太がそう言っても、カームは首を伸ばし外を見ていた。
「カームぅ……。お前、本当に馬か……? 中に人が入ってんじゃないだろうな? てか、どれだけ春香が好きなんだよぉ……」
呆れる雄太の深い溜め息と担当厩務員の笑い声、静川の忍び笑いが聞こえる静川厩舎はG1前だと言うのに平常運転だった。
東京競馬場 10R 第100回天皇賞秋 G1 15:35発走 芝2000m
カームは二番人気。オッズは4.5倍。
返し馬を終えた雄太はポンポンとカームの首筋を叩く。カームは二〜三度首を振りしっかりと前を向いた。
何となくではあるが、カームの目に闘志が宿っているように思えた。だからと言って入れ込んでいる訳ではなさそうだ。
「良い気合いだな、カーム。俺とお前なら出来るさ。さぁ行こう」
(雄太くんも……カームも良い感じに気合い入ってる。頑張って……。無事にレースを終えてね)
ガシャンと音を立ててゲートが開いた。いつもより前、先頭集団にカームはいた。
冬枯れの芝を蹴散らしながら、ずっと先頭集団をキープしてレースを進めている。
(カーム……。雄太くん……)
4コーナーを過ぎて、直線コースに入っても先頭に立てないカームの姿に力が入る。
そっと腹に手を当ててみる。
(パパを応援してね。頑張ってるパパとカームを……)
残り200メートルを切った。ゴール板が近付いてくる。
「雄太くんっ‼ カームっ‼ 頑張ってっ‼」
ポンポンを握る手と腹に触れた手に力がこもる。
何度も競り合いが続いていた状態からカームが抜け出した。
「カームっ‼ 雄太くんっ‼ 後少しっ‼」
ゴールする直前、後続馬が接近してきたが、カームは一着でゴール板を駆け抜けた。
「やったぁ〜っ‼」
飛び上がりたい気持ちはおさえたが、ポンポンを高く上げて声が出た。
雄太がグッと拳を握り小さくガッツポーズをする。そして、ポンポンとカームの首を叩いていた。
(きっと『ありがとう』ってカームに言ってるんだよね。私も言うよ。雄太くん、カーム。ありがとう。格好良かった)
東京競馬場に詰めかけた十三万人超の大歓声が聞こえる中、カームはゆっくりとスピードを落とした後、軽やかな足取りでウィニングランをしている。
スタンドからは大きな拍手がわいていて、雄太とカームの優勝を讃えていた。手を挙げた雄太の姿は何度見ても涙が溢れるぐらいに格好良いと思いながら、春香は拍手をしていた。
「パパ、優勝したよ。大きくなったら一緒にレースの録画を見ようね。パパのG1コレクション、まだまだ増えるんだよ。楽しみだね」
腹に手を当てるとポコポコと手に伝わる胎動が喜んでいるかのように思えて、春香は嬉しくなった。
「雄太くんが帰ってくる前に、お祝いの準備しなきゃ」
東京から帰ってくるのだから時間に余裕はあるが、色々としたいと春香はウキウキしながら準備を始めた。




