379話
10月27日(金曜日)
「テレビの前で応援しててくれよな」
「うん。頑張ってね」
春香は、屈んだ雄太にキスをする。雄太は、そっと抱き締めてから、更にふっくらとした春香の腹を撫でる。
「いってくるからな。まだまだ予定日は先なんだから、焦って出て来なくても良いんだからな?」
『分かった』と言うようにポコポコと手に伝わる胎動に、雄太は目を細めた。
「本当に意思疎通が出来てるみたいだね」
「ああ。じゃあ、いってくるな」
「いってらっしゃい。気を付けてね」
土曜日は京都競馬場。日曜日は東京競馬場での騎乗がある雄太。
京都競馬場の調整ルームでは、純也と梅野がいつも通り雄太の部屋に集まって駄弁っている。
「鈴掛さん、四週続けて東京っすよね?」
「ずっとって珍しいよな?」
「娘さんに会いに行ってるらしいぞぉ〜」
雄太と純也は梅野を見た。梅野は、缶コーヒーを手に笑っている。
「鈴掛さんの元奥さんって、関東の人だったんすか?」
「ああ〜。大学が関西だったんだってさぁ〜」
「んじゃ、離婚して元奥さんの地元に戻ったんすね」
「しばらくは結婚してた頃に住んでた水口の家にいたらしいけどなぁ〜」
純也と梅野の話しているのを聞きながら、雄太は鈴掛の持っていた娘の写真を思い出していた。
鈴掛の大切にしていた写真は端がボロボロになってしまっていた。それを春香が気付き、店のラミネーターで加工したのをとても喜んでいた。
「これで、もうこれ以上ボロボロにならないな。ありがとう、春香ちゃん」
「いいえ」
新しい写真が送られてくる事もなく、小さな赤ん坊の頃の写真を愛おしそうに眺めている鈴掛を見て、切ない気持ちになっていたのだ。
子供が出来てからは、鈴掛の気持ちがよく分かるようになった。
(俺が、もし鈴掛さんのような感じになったらどうするだろう……。つらくて切なくて泣いてしまうかも知れない……)
春香に会えなかった遠征期間の比ではないぐらいに、鈴掛は子供に会えていなかったのだから、胸が潰れるような思いだろうなと想像をしてしまう。
「でさ、雄太ぁ〜。明日は、勿論勝つ気満々だろぉ〜?」
「勿論ですよ。天皇賞は獲りたいタイトルの一つですから」
梅野が少し湿っぽくなった空気を変えようとする。
「雄太は、絶対獲りたいってレースはなんだよ?」
「ん〜。日本国内だと、やっぱりダービーかな」
「俺もダービーだなぁ〜。純也はぁ〜?」
「俺は、有馬記念っす」
騎手一人一人、獲りたいタイトルは違う。海外でもダービージョッキーになりたいと思う騎手は多い。
「ソルは有馬なんだ? 有馬記念って特別って感じするよな」
「だろ? てかさ、日本国内って事は、海外での目標あったりする訳か?」
「あるぞ。俺もだけど、春香の願いが結婚指輪の裏に刻印してあるんだ」
「結婚指輪の裏? 春さんは何て入れて欲しがったんだよ?」
「Eternal」
「へ?」
純也が意味が分からないと言う顔で梅野を見た。
「Eternalはフランス語だぞぉ〜」
「フランス語? って事は……」
「春香さんが、雄太に獲って欲しいってのは、凱旋門賞って事だなぁ〜」
「が……が……凱旋門賞っ⁉ また、大きく出たな、春さん……」
純也は目を丸くしながら、雄太の方を見た。
「多分、テレビで競馬を見てて大きなレースだって思ったんだろうと思うぞ? でもさ、俺自身が海外のタイトル獲りたいって思ってるし、いつか凱旋門賞で優勝したいって思うんだ」
「スゲェーデッカい夢だな」
「ああ」
雄太の夢であり、春香の夢は大きいが、不可能ではない気がすると純也は思った。
「俺は、ダービー獲って女の子にキャーキャー言われたいなぁ〜」
「梅野さん、まだモテたいんすか?」
「俺は世界中のレディに愛を届けたいんだよぉ〜」
「ウゲェ……」
「何だよ、その反応ぉ〜。俺は真剣なんだぞぉ〜?」
純也と梅野のやり取りに耐えきれなくなった雄太はゲラゲラと笑った。




