第15章 雄太の成長と誕生 378話
春香は静川と一緒にトレセンの静川厩舎の馬房前を歩いていた。
「カームなら大丈夫だとは思うけど、くれぐれも気を付けてくれよ? 春香さん。ああ、足元にも気を付けてくれ」
「はい、すみません。何か居ても立ってもいられないいられなくて……。ご無理を言って申し訳ないです」
「かまわんよ。春香さんにはカームも懐いてるし、喜ぶだろうからな」
妊娠初期はトレセンに向かう坂道は危ないからと避けていたし、夏場はカームは放牧に出ていたから、中々会う事が出来ないでいた。
「カーム」
少し離れた所から春香が声をかけると、カームはピョコッと馬房から顔を出した。
「ほら、おいで〜」
カームは鼻をフンフンと鳴らしながら、春香に顔を近付けてきた。
静川は、大きくなった春香の腹を心配しながら見ていた。
カームは春香に懐いてるとは言うものの、馬は言葉の通じない動物ではある。万が一の事がないとは言えない。
カームの馬体重は500kgを越えており、体の小さな春香など前足で軽く蹴るだけで吹っ飛んでしまいそうである。
「元気そうだね。毛艶も良いし」
静川の心配をよそに、カームは『何も心配する事はない』と言わんばかりに、春香に鼻面を撫でられている。日々接している厩務員でもない春香に甘えているのが不思議でならない。
「ねぇ、カーム。天皇賞走るんでしょ? 凄いね。私は見に行けないけど、頑張るんだよ?」
手を止めた春香に、カームはもっと撫でろと言わんばかりに顔を近付けている。
「ふふふ。カームは可愛いね。いくらでも撫でてあげるし、レース終わったら人参あげるからね。雄太くんと格好良いところを見せてね」
鼻面を撫でられていたカームがクイッと顔を上げた。春香がカームの視線の先を見ると雄太が立っていた。
「春香。来てたのか」
「うん。散歩してたんだけど、カームに会いたくなって」
雄太は近付きながら、春香をジッと見ている。
「どうかしたの?」
「ん? あ、今日は舐められてないなって思ってさ」
「プッ」
雄太の言葉に、春香は思わず吹き出した。
「わ〜ら〜う〜なぁ〜」
「だってぇ〜。カームにまでヤキモチ焼かなくても良いのに」
「そうだけど、こいつだって男だからな」
「そうだけどぉ〜」
カームは春香の手が自分から離れたのに気付いたのか、春香に顔を寄せる。
雄太は春香を抱き寄せて、カームから遠ざけた。
「カーム。春香は俺のだって言ったろ? 人参やるから」
雄太が厩務員から人参をもらってカームに見せるが、カームは春香を見ていた。
「お〜ま〜え〜なぁ〜。春香からもらわなきゃ食わないってのか?」
「ふふふ」
「全く……」
仕方なく春香に人参を手渡すと、カームはバリボリと良い音をたてて食べ始めた。
「美味しい? 頑張ったら、また人参の差し入れするからね〜」
「カーム。お前、絶対に俺より春香が良いって思ってるだろ?」
「プッ」
「笑い事じゃないぞ? 本当に良い背中してて、良い走りするのに、春香と一緒だと俺の事をなんだと思ってるんだか。絶対、お邪魔虫って思ってるだろ?」
「カームは良い子だよね〜。可愛い可愛い」
人参を食べ終わったカームは、また春香に顔を近付けた。
「だぁ〜っ‼ だ・か・らっ‼ 春香は俺のだっつってんだろっ‼」
雄太が春香を抱き寄せる。カームは首を上下させながら、前足で床をかく。
「カーム。お前、自分が馬だって自覚あんのか? 春香に甘えてる時のお前は、マジ大型犬みたいだぞ? その内、おすわりとかやるんじゃないだろうな?」
「こんな大きなワンコが家にいたら大変だね〜」
「春香……。そうじゃなくて……」
「へ?」
心配で見ていた静川も、厩務員達もゲラゲラと笑っている。
(本当に……もう、何て言うんだろうな。天皇賞前だってのに、無駄な緊張が解れたって言うか……。雄太も良い感じで、レースに挑めるだろうな。儂も、こんな穏やかな気持ちでG1を迎えるのは初めてだ)
天皇賞秋は間近に迫っていた。




