365話
「忘れ物はない?」
「大丈夫だって」
「パスポートだけは気を付けてね?」
「ああ。なくして、帰ってくるのが遅くなったら困るからな」
いつでも海外に行けるようにと、結婚を期に作ったパスポートを、結局一人で使う事になってしまった残念な気持ちはある。
それでも、やはりワクワクする気持ちは抑えられない。
「パスポートもミニアルバムもばっちりだぞ」
「うん」
いつも調整ルームに持って行っているミニアルバムの一番最初のページにはエコー写真が入っている。
離れていても、春香と子供と一緒だと言う気持ちでいたいと思い、春香からエコー写真を借りた。
それを大切にトランクに納めた。
「レース頑張ってね。応援してるから」
「勿論だ。体には、充分気を付けるんだぞ?」
「それは雄太くんもだよ?」
雄太を見詰める春香は、海外騎乗が決まった雄太が誇らしい気持ちと、しばらく一緒にいられない淋しさと、一緒に行きたかった無念さとが入り混じった複雑な思いをしていた。
「ああ。怪我をしないで元気で帰ってくるから」
「うん。待ってるね」
「帰ってきたら、マッサージ頼むな」
「勿論。目一杯マッサージするからね」
雄太は春香を抱き締める。
(初めての海外騎乗だから『期待して待っててくれ』とは言い難いんだよな……。分からない事だらけだし。全力を尽くすってスタイルは変わらないけど……)
胸に顔を寄せている春香の髪をそっと撫でる。
(しばらく春香チャージ出来ないから、しっかり抱き締めておかなきゃな)
その時、ポコポコと春香の腹から伝わってきた元気の証。
「ん? やっぱりヤキモチ焼きか?」
「え? 『パパいってらっしゃい。頑張ってね』じゃないの?」
「そうだと良いけどな。何か、ヤキモチ焼かれてる気がする」
「ふふふ」
雄太は笑いながら、そっと春香の腹を撫でる。
「しばらく留守にするからな。良い子にして待ってるんだぞ? 大きくなったら、アメリカの話を聞かせてやるからな?」
春香に向ける優しい笑顔とは違う父親の顔で話しかける。その言葉に反応したかのようにポコポコと蹴飛ばしてくる小さな生命が愛おしい。
名残惜しい気持ちを抑えて、大きなトランクを手に玄関に向かった。
春香との付き合いを反対され、実家から寮に移る時に買った大型トランクが、ようやく使える事が感慨深い。
「あ、お土産買ってくるからな?」
「え? そんな時間あるの?」
「多少はあると思うぞ? 何があるか分からないから、どんなのが良い? とは訊けないけど」
「私も分からないなぁ〜。お土産は雄太くんの元気な姿と写真で良いよ?」
「分かった」
『ブランド物が良い』と言わないのが春香らしいと思った。
(何か、春香の喜びそうな物が買えたら良いな)
そんな事を、考えながら並んで廊下を歩いて玄関に向かう。離れ難い気持ちがあるから、廊下が短く感じてしまった。
ピンポ〜ン
「あ、タクシー来た」
「うん」
雄太は春香にキスをした。
「じゃあ、いってくる」
「いってらっしゃい」
雄太は、もう一度キスして靴をはくと、手を降って玄関を出た。
(いってらっしゃい、雄太くん。頑張ってね。無事レースを終えてね)
自分が雄太を諦める為にアメリカに行こうと考えていた事を思い出す。
(あの頃の私って、本当に頑固だったなぁ……。雄太くんの為にって考えながら、本当は自分の事しか考えてなかったのかも……)
腹に手を当てて、小さく笑う。恐らく、雄太に言えば『そんな事ないよ。春香は、俺に迷惑かけたくないって、精一杯考えたんだろ?』と、言うだろう。
「あの時、雄太くんが……パパが京都大賞典を勝ってくれなかったら、あなたは今ここにいなかったんだよ」
ポコポコと返事をするように手に伝わってくる胎動が愛おしい。
「頑張ってね、雄太くん。大好き」
地方遠征より短いとは言え、遠く離れたアメリカに向かう雄太に精一杯のエールを送る春香だった。




