354話
「ただいま、春香」
「雄太くん、おかえりなさい。おめでとう」
「ありがとう。変わりはない?」
ただいまのキスの後に、春香の体調を確認するのが日課となった雄太は、そっと春香の腹に手を当てる。
馬に乗っている時やレースの事を考えている時は集中していて忘れるのだが、離れた瞬間には春香と子供の事が気になるのだ。
「雄太の中の切り替えスイッチを見てみたい」
たびたび純也が言う。雄太自身も分からないが、そのスイッチのおかげで集中力を欠いた事はなかった。
落馬をして心配をかけたり、泣かせたりしたくない。いつも、心の御守りとして春香がいる。
「うん。大丈夫〜」
「テレビの前で大はしゃぎしてなかったか?」
「う……うん」
歩きながら春香の顔を覗き込むと、案の定、目が泳いでいる。
「はしゃいでたんだな?」
「す……少しだけだよぉ〜。だって、嬉しかったんだもん」
実際は、レース中も興奮していたのだが、さすがに叱られそうで春香は誤魔化した。
「嬉しいけど、程々にな? まだ、安定期じゃないんだから」
「うん。今日はお祝いにお寿司頼んだんだぁ〜。この前買ったワイン開けようね」
リビングに入り、バッグを足元に置いて、雄太は春香の手をギュッと握り締めた。
「俺、しばらく禁酒するよ」
「え? 体調悪いの?」
春香が焦って訊ねた。量は少しだが、夕飯の時に二人でワインを呑んだりしていたからだ。
「違う、違う。妊娠が分かってから春香は呑まなくなっただろ? だから、さ」
「ん〜」
「春香が、ソフトクリームを一人で食べるのはって言ってたのと一緒だよ。どうせなら、二人で呑みたいから」
「うん、分かった」
元々、大して呑まない雄太だったから禁酒は苦にはならない。酒を覚えたのも、調教師との付き合いの為と言う理由だったからだ。
「えっと……それより大事な話があるんだ」
「なぁに?」
雄太は春香の手を引いていき、ソファーに座らせた。
「あのさ、俺、アメリカに行く事になりそうなんだ。馬主から『向こうのレースで乗ってみないか』って誘われたんだよ」
「アメリカ……?」
春香の目にみるみる涙が浮かび、溢れ頬を伝った。
「雄太くんの夢の一つだね。海外のレースに出るって」
「ああ。こんなに早くオファーもらえるとは思ってなかったよ」
「うん。勿論、行くよね?」
ポロポロと溢れる涙を雄太は指で拭ってやる。
「行きたい気持ちは勿論あるよ。でも、妊娠中の春香を残して行く事に不安があるんだ」
「駄目っ‼ 絶対、行かないと駄目だよ。チャンスなんだよ?」
雄太の言葉に、春香が真剣な目をして首を横に振る。
「そう言うと思った」
「え?」
「だから、『お願いします』って答えたよ。春香なら『行って』って言うと思ったから」
「そんなの当たり前だよ。絶対に行って欲しいもん」
春香は雄太の体をギュッと抱き締める。雄太もしっかりと抱き締めかえす。
「雄太くんの夢でしょ? 子供の頃から憧れた夢の舞台だよ。行かなきゃ後悔するってぐらいの。私が反対する理由なんて何にもないもん」
「そうだな。ありがとう、春香」
何も言わず抱き締めあっていると、体だけでなく、心まで温かく満たされていく。
「今日は、G1の優勝だけでなく、海外行けるお祝いもしなきゃね」
「そうだな。前祝いしよう」
雄太は、春香に何度もキスをする。
(俺が夢を叶える時に傍にいて欲しいと思った春香が、今ここにいて笑ってくれている……。憧れた海外に行けるって時に、一緒に喜んでくれた……。俺は何て幸せ者なんだろう……)
初めての海外での騎乗に不安がないかと言われれば『全くない』とは言えない。
日本とは馬場も違うし、普段乗っている馬ではないのだ。日本では、それなりに信頼はされたが、アメリカでは無名の若造だと言われるだろうし、扱いも良くないのは分かっている。それでも、チャレンジしたいと思ったのだ。
雄太の夢が、また一つ叶えられる事となった。




