344話
5月26日(金曜日)
今週も雄太は、土曜日が阪神競馬場で日曜日に東京競馬場で騎乗する事になった。
一週間、春香の体調は安定していたが、大事を取って今週も東京には行かない事にしていた。
「じゃあ、行ってくるな」
「いってらしゃい。気を付けて頑張ってね」
「ああ。春香も無理するなよ?」
「うん」
雄太は春香の体調不良がなくなって、ホッとしながら出かけた。
「さてと、掃除……うっ……」
込み上げる物を我慢しながら洗面所へと向かった。
(気持ち……悪い……。何……? 私、何か病気なの……?)
ジンワリと浮かぶ涙を拭い、雄太との約束を思い出した。
「体調悪くなったんだし、病院に行かなきゃ……」
足元が少しふらつくので、壁に手をつきながらリビングに戻った。子機を手にして、ソファーに座る。二度ほど深呼吸して、春香は電話をかけた。
「はい。東雲マッサージ……あら、春香。どうかしたの?」
『お母さん……。気持ち悪いの……』
「え? 吐きそう……とか?」
『うん……』
「分かったわ。すぐ行くから待ってなさいね?」
『お願い……』
隣にいた直樹が心配そうな顔で聞いていた。受話器を置いた里美は、デスクの引き出しを開けて家の鍵を取り出した。
「春の体調が悪いのか?」
「ええ。店の方お願い」
「病院に行くなら……」
「私の方が良いから。後で連絡入れるわ」
「え? え?」
訳が分からない直樹は、慌てて出かけて行く里美を見送った。
(春……。何があった? 大丈夫だよな? 春……)
5月26日(日曜日)
ダービーに出場した雄太は掲示板入りを果たす事は出来なかったが、精一杯やれたと思って帰路についた。
自宅に戻った雄太は家の灯りが一切点いていない事に気付いた。
(え? 車は……ある……。もしかして、また体調悪くなったとかかっ⁉)
雄太が鍵を取り出した時、車のブレーキ音がした。振り返るとそこには直樹のベンツがあった。
雄太は手にしていた荷物を置いて、門扉の外へ出ると、助手席から春香が降りてきた。
「雄太くん、おかえりなさい」
「ただいま。東雲に行ってたのか?」
「うん。えっと……あのね。病院に行って、そのまま泊まってたの」
「び……病院っ⁉」
春香は恥ずかしそうにしながら、焦っている雄太に近付き手を取った。
「出来たの……、赤ちゃん。年末、遅くても年始には雄太くんパパになるんだよ」
「えぇ~っ⁉ 赤……ちゃん? 俺がパパ……」
感極まった雄太は、思いっきり抱き締めようとして思いとどまった。
そぉ〜っと壊れそうな宝物のように抱き締める。腕を緩めて、そっとお腹に手をあてる。その手の上に春香が手を重ねた。
「ここに……居るんだな……。俺と春香の子供が……」
(ヤバい……。泣きそうだ……)
目頭が熱くなる。いつかはと思っていたが、今、春香の腹に子供がいるのだと思うと手が震えた。
直樹が車を降りて、春香のバッグを玄関に置いた。
「春、無理するんじゃないぞ? 暖かいからって冷やさないようにな?」
「うん。ありがとう、お父さん」
「雄太」
「はい。お義父さん……」
「妊娠初期は流産の危険がある。くれぐれも気を付けてやってくれ」
「はい」
春香の体を離し、深々と頭を下げた。
直樹の車を見送ると、雄太はその場に崩れ落ちた。
「大丈夫? 雄太くん」
「あ……あぁ……。ごめん。何て言うか……全身の力が抜けた……」
膝をついて自分を見ている春香の手をギュッと握った。
「ありがとう……春香。俺、嬉しくて……」
「ううん。それは私のセリフだよ。雄太くん、私に赤ちゃんを授けてくれてありがとう」
初めての妊娠。色々と注意しなきゃいけない事も覚えなきゃいけない事もたくさんある。
「病院でもらった冊子と買ってきた本を読んで勉強するね」
「ああ。俺も一緒に覚えるよ」
「うん。雄太くん大好き」
「俺も大好きだ」
きっと、慎一郎と理保も喜んでくれるだろう。
そう思いながら、雄太はもう一度春香を抱き締めた。




