341話
5月19日(金曜日)
20日は阪神競馬場、21日は東京競馬場でレースのある雄太は、荷物を手に階段をおりてきた。
リビングのドアを開けると春香が駆け寄って来た。
「じゃあ、行ってくるな」
「うん。ねぇ、本当に東京には行っちゃ駄目?」
「もし、東京で体調不良になったり、倒れたりしたら困るだろ?」
「そう……だね」
二日間東京でレースがあるならホテルをとるが、今回は21日のみなので新幹線で行く事になる。
在来線や新幹線に乗っていて吐き気がしたり、最悪倒れたりした場合、調整ルームに居る雄太には連絡をする事は出来ないのだ。
かと言って直樹や里美に連絡が行き、迷惑をかける事になるのを春香は良しとしない。
「オークスは今年だけじゃないんだしな?」
「分かってるけど……」
「俺だって、春香の前で一着獲りたいんだぞ? 現地で応援して欲しいんだ。でも、春香の事が大事だから言ってるんだ」
「うん」
雄太はバッグを床に置いて、春香を抱き締める。小さくて柔らかい体が自分の腕の中にスッポリと納まる。
「もし俺が居ない時に何かあったら、騎手って言う仕事をしてなかったらって後悔する事になるだろ?」
「うん……。ごめんなさい。騎手をしている雄太くんも好きなのに、私が邪魔しちゃったり心配かけてしたら駄目だよね」
「春香の事を邪魔とは思わないよ。毎日、朝早くてごめんとか、落馬の心配かけてごめんって言ったら春香は何て答える?」
「あ……」
仕事の内容や生活リズムが違う事を納得して付き合い、そして結婚したのだから今更な事ではある。
「えっと……今回は家で応援してるね。だから、怪我しないようにね? 精一杯頑張ってきて」
「ああ」
玄関チャイムが鳴った。
「あ、タクシーきたね」
「じゃあ、行ってくるな」
「行ってらっしゃい」
ドアを開ける前にキスをする。名残惜しい気持ちを抑えて、雄太は阪神競馬場に向かった。
(えっとぉ……。掃除と洗濯して、少し休憩しよう。また気持ち悪くなったら困るし)
吐き気がした原因は分からない。翌日には治まった事で一安心したが、昨夜また吐き気があったら病院で診てもらう約束をした。
「検査して異常がなかったら、デートしような?」
「うん」
取材などの予定さえなければデートをしたいのだが、最近の雄太は本当に忙しくなっていた。
また祝勝会の予定も入り、デートらしいデートが出来てはいないのだ。雄太も少しぐらい遠出をしたりしたいと思う気持ちが湧いてきていたのだ。
春香も同じ気持ちであった。
調整ルームに入った雄太は、荷物を置いて座り込み春香の事を考えていた。
(大丈夫かなぁ……)
一緒に暮らし始めて、春香が日頃から風邪を引かないようにしているのは分かった。体が弱い訳でもないのも。
熱を出したり、今回のように吐き気がしたりは、春香も経験が少ないようで対処に迷いがあるようだった。
(マジで何か重い病気だったら……。俺、春香が居なくなるなんて絶対に嫌だっ‼ ヘタレって言われるかも知れないけど、春香が居なかったら生きていけない……)
「雄太? どうしたんだよぉ〜?」
いつの間にか部屋に入って来ていた梅野が床に座り込んでいた雄太の顔を覗き込んでいた。
「うおっ⁉ あ……梅野さん。え……あ……ちょっと……。あはは……」
「二人で座り込んで何やってんの?」
いつも通り、自分の部屋から布団を持ってきた純也が、出入り口で目を丸くしていた。
春香の様子を話して良いのかどうか雄太は迷った。特に、純也は明後日初めてのG1に出るのだから、余計な心配はかけたくない。
ドサリと布団を置いた純也も雄太の傍に座り込む。
「実は、G1を獲ると春香が毎回新しいネグリジェを着てくれるから、明後日はどんなのか楽しみだなって思ったんだよ」
「はぁ? 春さん大サービスだな」
「羨ましい奴めぇ〜」
何とか誤魔化した雄太は二人にくすぐられまくりながらも、春香の事が頭から離れなかった。




