331話
顔を真っ赤にした春香の体を左手で抱きとめ、右手で頭をよしよしと撫でていると、いつの間にか春香はスースーと寝息を立てていた。
(可愛い顔して、随分と大胆な事を言ったなぁ……。俺も恥ずかしかったんだけど……)
苦笑いを浮かべながら、眠った春香をそっと横にならせて、膝枕をしてやりコートをかけてやる。
「気持ち良さそうに寝ちゃって」
直樹が、目を細めながら見詰めていた。
「結婚してからの疲れもあったんでしょうね……。毎日朝早いですし、慣れない事の連続ですから」
雄太は、春香の頬にかかった髪を指でよけてやる。
「春は頑張り過ぎる処があるからな」
「そうね。でも、雄太くんの為ならどれだけでも頑張っちゃうと思うわ」
しみじみと言う直樹と里美を見ていると、やはり春香が嫁に出て少し淋しそうに思えた。だからと言って、後悔している訳ではないのだろう。
雄太と笑い合っている処を見る目は優しかったからだ。
「ありがたいと思ってます。言葉にしなくても俺の為にって頑張っているのが伝わってきますから」
「春さん楽しそうだぞ? マッサージしてる時も厩舎まわりしてる時もさ」
純也の言葉に、直樹の猪口を持つ手が止まる。
「春は、マッサージだけでなく厩舎まわりしてるのか?」
「ええ。さすがに全部はまわりきれないですけど、俺が乗せてもらった厩舎や騎乗依頼くれた厩舎には挨拶に行ってくれてます。時には、マッサージしたりとかも」
「それで、毎日忙しくしてるのね」
里美が電話をしても居ない時が多い事の理由がやっと分かった。
「馬と触れ合ったりしてると幸せな気持ちになれるんだって言ってました。この前なんて、カームの尻尾の抜け毛をもらって喜んでましたし」
「尻尾の抜け毛ってぇ〜」
「春さんらしいな」
皆、その時の春香が目に浮かぶようだった。
「その尻尾の抜け毛どうしてあるんだぁ〜?」
「俺のサイン色紙と一緒に額の中に入れて飾ってますよ」
「そっかぁ〜。カームは雄太をG1騎手にしてくれた馬だもんなぁ〜」
梅野は鈴掛にシメられ、クシャクシャになった髪のまま笑っている。
「そう言えば、春さんって馬に舐められまくるのな」
「は?」
「何だ、それぇ〜?」
いつの間にか頼んだ山盛りアイスをモグモグ食べながら純也が言う。
「俺、結構春さんが舐められてるトコに出くわすんだよなぁ〜。辰野厩舎だろ。古川厩舎に静川厩舎。吉田厩舎におっちゃんトコでも見たぞ」
「父さんの所でもなのか?」
あちこちに顔を出しているとは知っていたが、まさか慎一郎の所にもとは思っていなかった雄太は驚いた。
「雄太は、春香ちゃんが慎一郎調教師の所に顔出してるの知らなかったのか?」
「聞いてないですよ。父さんも、そんな事は一言も言ってなかったし」
「慎一郎調教師な、一応調教師の顔して話してるんだよ。所属騎手がマッサージしてもらった礼を言ったりな。でもさ、気を緩めたらデレデレしてたぞ」
「父さんが……デレデレ……」
鈴掛に言われ、調教師としての慎一郎と実家での慎一郎を思い出し笑いが込み上げそうになる。
「俺が見てるのに気付いた時の慎一郎調教師のバツが悪そうな顔がなんとも言えないんだけどな」
「でしょうね」
雄太だけでなく、純也もゲラゲラ笑いだす。
「俺としては、春が婚家で可愛がってもらってるのは嬉しいぞ。嫁イビリされてたらたまんないからな。けど……プッ」
「それもそうね。でも……ちょっと……プッ」
直樹と里美もおかしさに堪えきれず笑っていた。
雄太の二十歳の誕生日会は笑顔が溢れる良い集まりだった。
春のG1シリーズが始まれば緊張感のある日々が続く。
春香も今以上に雄太の体調管理に気が抜けなくなるだろう。それでも、春香は『私が選んだ大切な人の為だから』と笑うだろうと雄太だけでなく、皆が思っていた。
(桜花賞……獲るからな? 春香の頑張りを無駄にはしないから)
雄太は眠っている春香に誓った。




