320話
「本当、あの娘は良い顔をして笑うねぇ〜。癒されるでしょう?」
「ええ。あの笑顔を守りたいって、真剣に思ったんですよ。当時十七歳のクソ生意気なガキの俺は」
「出会いなんてそんなモンでしょ? 早い遅いなんて本人達が決めれば良いんじゃないですかね? 俺は、そう思うよ」
「はい」
パート女性達に新しいハンドクリームを手渡し、笑顔で会話をしている春香を二人並んで見ていた。
東雲の神子の顔からは想像も出来ない屈託のない笑顔で、二人の方に駆け寄ってくる。
「雄太くん、一個余っちゃった。これは……。あ、お仕事の話し中だった? ごめんなさい」
春香は雄太と隣に立つ男性を見て、慌ててその場を離れようとした。
「いやいや。雑談してただけですよ。鷹羽春香さん」
「え……?」
そう言われて、春香が何かに気付いたように立ち止まり振り返った。
「どうした? 春香」
「あの……間違ってたら、ごめんなさい。もしかして、阪神競馬場で会ったおじさん……ですか?」
「競馬場の……おじさん? ええっ⁉」
雄太の目が真ん丸になる。『市村さんに競馬の事を教えるのは俺のはずだったのに』とヤキモチを妬いた『競馬場のおじさん』に、早朝から密着取材を受けていたのだから驚くのも無理はない。
「お? よく分かったな。尻尾の嬢ちゃん」
「やっぱり、あの時のおじさんだ。お久し振りです」
髪型も違う。サングラスではなく眼鏡をかけている。服装もジャケットにスラックス。だが、低くて渋いけれど優しい声は変わってなかった。
「嬢ちゃん、元気そうだな」
「はい、おじさんも。もしかしてトレセンのかただったんですか?」
「ん? 俺はテレビの人だ」
「テレビ? あ、取材の?」
「そう。嬢ちゃんの旦那様の取材だよ」
春香と鮎川は、何年か振りに会った親戚のような雰囲気で話している。
その二人を雄太はジッと見詰めていた。
(これも縁って言うのかな……?)
「私、何度か阪神競馬場に行ったんですけど会えなくて」
「さすがに、いつも競馬場にいる訳じゃねぇしな」
「そうですよね。でも、私また必ず会えるって思ってました」
「俺もだ、嬢ちゃん」
二人が話し込んでいるとスタッフから声がかかった。
「鮎川さん。テープチェンジ終わりました」
「おう」
「鮎川さんってお名前だったんですね」
「あ〜。名前言ってなかったもんな。競馬好きタレントで売ってる鮎川陽路ってんだ」
鮎川はそう言ってポケットから名刺入れを出して一枚春香に手渡した。
そして、あの時と同じようにポンポンと春香の頭を撫でる。
「え? ああっ‼ 思い出した。鮎川さん、東雲で……」
「お? ようやく、そっちも思い出してくれたか」
鮎川がニヤリと笑う。雄太は意味が分からなくて置いてけぼりだ。
「東雲って?」
「うん。私が、一番最初に神の手を使ったのが鮎川さんなの」
「えぇーっ⁉ 競馬場で会っただけでなくて、そんな前から……」
初めて会ったのは、春香がまだ外の世界は怖い物だと思い込んでいた頃だ。
「あの時と競馬場での鮎川さんは雰囲気が全然違ってて思い出せなかったです」
「あん時の俺は全く売れてなくてなぁ〜。髪型変えたりとか必死だったんだ。んでな、たまたまトレセンの取材する奴がインフルエンザでブッ倒れてさ。競馬好きなら代打で行けるだろって事だったのに腰を痛めてな。嬢ちゃんに助けてもらわなかったら、俺は今頃、田舎で畑を耕してたぞ」
鮎川は大きな声で笑った。
(鮎川さんが腰を痛めなかったら、春香の神の手の目覚めはなかったかも知れない……。そしたら、俺は春香と出会えなかったんだ……)
春香が東雲の神子として施術をしていなかったら、雄太のデビューは遅くなっていたのは確実だ。もしかしたら、まだG1を獲るに至っていなかったかも知れない。
(縁……かぁ……。本当に不思議な物だよな。ほんの少し違ったら、『今』が違った物になっていたかも知れないなんてさ)
雄太は、春香と出会えた奇跡に感謝した。




