318話
「俺に目標があるように、下川さんにもあるでしょう? 脇目も振らず突き進めば良かったんじゃなかったんですか?」
「……そうだな。俺は周りと比べてばかりで、自分を磨く事を怠ってた。それじゃ、鷹羽には勝てないって思い知ったよ」
下川は切なげな表情で笑った。
「頑張ってください。俺も頑張ります。なんたって、春香をアメリカやフランスにも連れてってやるって約束をしましたから」
「そっか。海外か……。お前ならやれるって思うよ。頑張ってくれ」
周りから天才だと持ち上げられても、性格的に一歩引いてしまう部分があった雄太。だが、傲慢にならず一歩ずつ進む事で少しずつ変われた。
甘いと言われても人は変わっていけると信じたいのだ。
「春香、下川さんをみてやってくれ」
雄太の言葉に下川は驚いて固まった。春香は黙って雄太を見上げる。
「下川さんは反省したし、もう俺の悪口言ったりしないよ。そうですよね?」
「それは……そうだけど……。許してくれるのか?」
「人間誰しも間違う事はあります。間違っていたと認め反省するなら、俺は構いません。ただ、妻にもう一度謝罪をしてください。妻が俺の悪口を言う人間を許さないように、俺も妻が悪く言われるのは許せないんです」
下川は頷いて、春香に近付いた。そして、しっかりと頭を下げる。
「本当にすみませんでした。あなたの悪口を言う事で鷹羽にダメージを与えようとしていました。あなたは何も悪くないのに……。もう二度とバカな事はしません。約束します」
「本当……ですね?」
「はい」
頭を上げた下川の目に映ったのは、先程までの怒りに満ちていた顔ではなく、野原に咲く花のような優しい穏やかな笑顔の春香だった。
「骨に異常はないんですよね?」
「え? ああ。骨折やヒビじゃないんだと思う。腫れもないし。ただ、ジンジンと肘から肩にかけて痛みがあるんです」
「分かりました。あ、私の施術料金は……」
「分かっています。それでも、俺は今度のG2に出たいんです」
「はい。承知しました」
雄太達のやり取りを呆然と見ていたパート女性は我に返った。そして、椅子から腰を上げる。
「あ……すみません。マッサージの最中だったのに」
「あ……いえ」
下川はパート女性にも頭を下げる。恐縮しながら女性はその場を離れた。
「頼むな、春香」
「うん」
下川は譲られた椅子に腰かけた。春香は着ていたトレーナーを脱ぎ半袖のTシャツになる。
「すみません。どなたかジェルタイプのハンドクリームをお持ちじゃないですか?」
春香が声をかけると、パートの女性達からハンドクリームがいくつも差し出される。
「ありがとうございます。……これだけじゃ足りないな……」
「んじゃ、俺がひとっ走りして買ってきてやるよ」
「あ、塩崎さん」
いつの間にかスタンドに上がって来ていた純也がニッと笑った。
「お願いします。これと同じ物を……最低でも二十本」
「任せとけ」
純也はヘルメットと鞭を長椅子に置いた。そして、春香からハンドクリームを一つ手渡される。
「塩崎、悪いな」
「良いっすよ、下川さん。んじゃ」
礼を述べた下川に笑いかけると純也はスタンドから出て行った。
「春香。ハンドクリームで何するんだ?」
「ジェルの代わり。家に置いてるのがもうないから。雄太くん、下川さんの服を脱がしてあげて」
「ああ」
雄太はゆっくりと肘に負担をかけないように下川の服を脱がした。
「痛むのは左肘ですよね?」
「はい。馬から落ちた時に肘をついてしまったので」
「分かりました」
春香はハーフアップにしていた髪を一纏めに結び直し、下川の左肘に触れていく。
(うん。これは折れてはないな……。骨に異常はなさそう)
一通り指で下川の肘の周辺をなぞった春香は小さく頷いた。
「では、始めます。時折痛みが走ります。我慢出来なかったら、遠慮なく言ってください」
「はい」
春香は手にたっぷりとハンドクリームを付けると下川の左肘に触れた。




