317話
「おっしゃる通り、私は騎手鷹羽雄太の妻です。夫の同僚を大切にすべきであるのは、百も承知しております。ですが、同じトレセンで働く女性をパートだと見下す方の依頼はお断りさせていただきます」
一気に言い切った春香は、調教師の隣に立っていた騎手に視線を移す。
「何より、あなたは夫に嫌がらせしてましたよね? この前も夫が置いていたヘルメットを蹴飛ばす処を私は見ていました。そんな事をする方を私が助けるとでも?」
バツが悪くなったのか、騎手はフイっと視線を下げた。
周りにいた人達からも声が上がる。
「鷹羽だけでなく春さんの悪口も言ってたよな」
「マッサージしてくれてる春香さんを偽善者って言ってたんだぜ」
段々と分が悪くなっている事を感じたのか、調教師も黙ってしまった。
「そもそも、神の手は使う相手を選んでしまうんです。私自身が嫌だと思ってしまったら発動しないんです。申し訳ありませんが、病院に行ってください」
春香がキッパリと言い切った時、ポンと肩に手が乗せられた。
「雄太くん……」
「春香、もう良いよ。下川さん、顔を上げてください」
今日は取材があるから忙しいと言っていた雄太が隣に立っていた。
「鷹羽……」
顔を上げた下川が小さく呟いた。
「病院に行って間に合うならそうする……。でも、病院に行っても湿布を貼って安静にしていろ。痛ければ鎮痛剤を飲めと言われるだけだ。俺は……週末のレースに……G2に出たいんだ。頼む、鷹羽。奥さんを説得してくれ」
「下川さん……」
下川は縋るように雄太に頼み込んだ。雄太を応援するようになって、春香もレースにかける騎手の思いは理解出来るようになっている。だが、雄太に敵意を向ける相手に容赦は出来ないのだ。
「私、雄太くんのお願いでもきかないですよ?」
春香はキッと睨むように下川を見た。
「私自身が、あなたに嫌悪感を抱いているんです。散々、雄太くんの事を悪く言ったり、嫌がらせしておいて……」
「春香、それ以上言わなくて良いから」
春香の言葉を遮り、ゆっくりと首を横に振った。
「だって……。私はいくら悪く言われても構わない……。だけど、雄太くんが悪く言われるのだけは嫌なの……」
「分かってる。それに、他人を利用する自分勝手な人間が嫌いだって言うんだろ?」
雄太は春香の頭を撫でながら、背中をポンポンと叩いて落ち着くように促した。
「そう……だよな。どうしようもなく自分勝手で……ガキだよ、俺は……。歳下の鷹羽にあっという間に追い抜かれて悔しかったんだ……。今年で五年目だってのに、G1に出る事も出来なくて……。G3だって数えられる程しか……」
下川の声が徐々に震える。デビューしたての後輩が自分より上に行く悔しさは、誰もが持つ感情だろうとは思う。
だが、鈴掛達を見て来た春香には下川が甘えているようにしか見えなかった。
「G1獲って、リーディング一位にもなった鷹羽が羨ましかったんだ……。悪口を言っても虚しかった……。でも……そうでもしなかったら心が折れそうだったんだ……。本当、バカだった。悪かった、鷹羽」
下川は雄太に頭を下げた。それがどれだけの屈辱な事のか、雄太も春香と想像が出来ない訳ではない。
だが、ジッと見ているしかなかった。
「すみません、奥さん。あなたの大切な人に、散々悪口を言ったり嫌がらせしていたのに利用しようとして。病院に行ってきます。嫌な思いさせて申し訳ないです」
「下川、お前……」
「良いんです、調教師。きっと罰が当たったんですよ。乗り替わりの手配お願いします」
調教師の言葉に下川は首を横に振った。そして、雄太と春香に背を向けた。
「下川さん」
立ち去ろうとした下川を雄太が呼び止めた。下川が振り返る。
「俺を蹴落としても他にも騎手はいますよ? それでも俺を蹴りたかったんですよね。でも、無駄です。俺は、そんな事ぐらいでは折れません」
雄太の顔はいつにも増して真剣だった。




