316話
「あの……私、入ったばかりのパートなんですけど……。マッサージお願いしても良いんでしょうか?」
「そんな事はお気になさらずに。どうぞ、おかけください」
最初は騎手や調教師、厩務員しか来なかったが、次第にパートの女性も訪れるようになった。
「春ちゃん、肩頼める? 何か重怠い感じがして」
「はい。あ〜。こってますね」
たった五分。けれど、皆楽になったと笑顔で持ち場に戻って行く。その姿を見るのが嬉しくて、春香は余程の事がない限りトレセンでのマッサージをしていた。
「春さん、この前はありがとう。これ、家の畑で採れたんだ。良かったら食べてくれ」
「うわぁ〜。立派な水菜ですね。ありがたく頂戴します」
東雲の神子のマッサージが無料では申し訳ないと、缶コーヒーなどを置いて行く人もいた。
(ん〜。買った物はいただかないほうが良いんじゃないかな……。でも、皆が皆、畑とかしてる訳じゃないし……)
雄太とも相談をした。その上でマッサージを始めた三日目には、画用紙に書いた注意書きを使用許可証の横に並べる事となった。
『当マッサージに対する差し入れについてのお願い
*缶コーヒーなどは二本まで
それ以外の買った物は遠慮させていただきます
*ご自宅で採れた野菜なども少量でお願いいたします
鷹羽春香』
それでも、一日二時間程度のマッサージで、野菜や果物など多くの差し入れが箱に入れられるようになっていた。
「鷹羽の奥さんって、こう言っちゃ失礼だけど面白いよな」
「本当に東雲の神子なのって思うくらい可愛いのよ。娘にしたいぐらいだわ」
「G1騎手の奥さんが大根やネギをもらって嬉しそうに帰って行くんだぜ」
日を追うごとにマッサージに訪れる人が増えた上、評判が良くて雄太もホッとしていた。
「春香、そろそろ……。お〜。今日の白菜はデカいな」
「雄太くん。立派だよね〜。今夜は鍋に決定だね」
「この大根も良いな」
「うん。ふろふき大根しても良いし、みぞれ鍋も出来るね」
野菜の入った段ボールを抱える雄太と、道具をリュックにしまい背負う春香。
G1騎手と東雲の神子らしからぬ会話と姿が微笑ましいと噂はどんどん広がっていった。
数日後
いつものようにマッサージをしている時だった。
「ちょっと、どいてくれっ‼」
大きな声がして、春香は手を止め顔を上げた。マッサージを待つ人達を押しのけて、見覚えのある男が前に出てくる。
春香の顔に緊張が走った。
「何でしょう? マッサージなら並んでいただけますか?」
「急いでるんだっ‼ うちの所属騎手が落馬して肘を痛めた。あんたの神の手が必要なんだ」
動揺している事を悟らせず、あくまで冷静に言葉を発した春香に、大声で噛み付くように答えたのは調教師だった。
雄太と春香の交際に反対をし、結婚をした後も、何かと春香の悪口を吹聴している人物。雄太が心配をしていた事が現実となってしまった。
「私は、ここでは神の手は使いません。何より五分では無理です」
「なら、神の手で治療してやってくれ。週末乗れるように」
「神の手は治療ではありません」
春香と調教師が言い争っていると、痛みに顔を歪めた騎手が歩いて来た。
歳は梅野より少し上に見えるその騎手にも見覚えのあった春香は、苦虫を噛み潰したような顔をする。
「あ、ごめんなさい。マッサージ再開しますね」
「え? でも……。良いの? 春香ちゃん……」
「はい。時間分からなくなっちゃったから、今から五分にしますね」
「ありがとう、助かるわ」
春香とパートの女性の会話を聞いて、調教師は舌打ちをすると騎手の方へ歩いて行った。
(……もう、話したくない……。早く病院に行ってくれば良いのに……)
そう思った春香の元に、調教師は戻って来るとギロリと睨み付ける。
そして、また大声で怒鳴った。
「そんなパートなんかより、騎手の方が大事だろうっ‼ あんたは借りにも騎手の嫁だろうがっ‼」
その言葉に春香の中で何かが切れる音がした。




