31話
春香はタオルで顔を拭って、雄太に向き直った。
「本当、ごめんなさい。仕事中に笑って時間を無駄にしたの初めてです。申し訳ありません」
深々と頭を下げて頭を上げると、雄太の心配そうな顔が目に入る。
「怒ってないんですか……?」
恐る恐る雄太が訊ねる。
「怒ってないですよ? 二人っきりって言うのが気になるなら、ドアを開けて カーテンにしておきましょうか? 少しは気にならなくなるかと」
春香はタオルをバスケットに入れると、ドアに近付いて行く。
「俺が悪いんですから、そんなに気を使わないでください……」
雄太は、春香が怒ってはいなくても 失礼な事を口走ったのには変わりがないと小さくなる。
そんな雄太を見て、春香は右手の人差し指を口元に当てて少し考えると、ドアを全開にしてストッパーを掛けクリーム色のカーテンを閉めた。
「い……市村さん……?」
春香はニッコリ笑いながら振り返る。
「それじゃあ、始めましょうか」
歩きながらカーディガンを脱ぎ デスクに置くと、春香は 雄太の足元に膝を着く。
そしてバスタオルを足元に広げ、ジェルを手元に引き寄せた。
「私は競馬に詳しくないから、色々と訊いても良いですか?」
優しく笑ってくれている春香に、雄太はホッとして頷いた。
「俺が分かる事で、答えられる事なら何でも訊いてください」
春香はジェルを手に取ると、ゆっくり足に触れていく。
「鷹羽さんのデビューの日っていつなんですか?」
「デビューは、競馬学校を卒業して 、明けた3月の一週目のレース開催日初日なんです。だから、俺のデビューは3月1日です」
競馬の話となると雄太の声は明るく饒舌になる。
「そうなんですね。私、普通の会社みたいに4月1日だと思ってました」
(そっか……。だから時間外で私の指名を……。今日は20日……。1日に 馬に乗れる状態……ううん。それじゃ遅いんじゃ……。1日より前に万全の状態じゃないと駄目な気がする……。 一日も早く完治させてあげないと)
春香は、イキイキと話す雄太をチラリと見上げる。
「俺、小学生の頃に騎手になるんだって決めて、ずっと乗馬習ってたんです」
「そんなに早くから? 私、生で馬を見た事もないです」
「良かったら乗馬教室行ってみませんか? 体験とかあったと思うんですよね」
「楽しそうですね。行ってみたいなぁ~」
『ぜひ』と言おうと春香を見て、雄太はその言葉を飲み込んだ。




