315話
2月の始めから、春香は雄太の出勤後、家事を終えるとトレセンに出かけるようになっていた。
「おはようございます。体の調子はいかがですか?」
「お、鷹羽の若奥さん。ありがとう。良い調子だよ」
「良かったです。無理しないでくださいね」
「若奥さん。元気だね」
「はい。元気です」
春香が声をかけながら歩いていくと、たくさんの人が笑顔で答えてくれる。
「今日は午後から雪の予報ですね。首と手首足首を温めてくださいね」
「ああ、そうするよ」
「若奥さんも風邪引かないようにな」
「はい。ありがとうございます」
手を振って、トレセン内の奥に向かっていく。調教を終え厩舎に帰る馬とすれ違いながら、スタンドにつき階段を軽やかに上る。
二階の隅に行き、背負っていたリュックを長椅子に置き、中からタオルやタイマー等を次々と取り出していった。
そして、横に額に入れてあるスタンド使用許可証を置いた。
(今日も頑張ろっと)
時は正月休み明けにまで遡る。
「へ? マッサージ? どこで?」
「トレセンの中で」
「えっ⁉ マッサージ屋を開業したいって事?」
「開業じゃなくて五分ぐらいのマッサージ屋さん。無料で、誰でもOKの」
雄太の顔に不安の色が広がる。
「春香……。大丈夫なのか……?」
「大丈夫。神の手は使わないから」
春香の神の手は人を選んでしまう。来た相手が雄太や春香に悪意を持っている人だったりした場合、神の手は使えない。
『自分でも分からないの。嫌だなって思ったら使えないんだよね』
東雲で働いていた頃から、春香は言っていた。
その春香がマッサージ屋をしたいと言い出したのはトレセンの中。夫である雄太の職場の人に対して、面と向かって『あなたは施術出来ません』とは言い難いだろうと心配になったのだ。
「神の手を使わないのは良いけど」
「うん。てか、私が一人でトレセンの中を自由に歩いても良いの?」
「それすら分からずやろうとしてたのかよぉ〜」
呆れた顔の雄太を見て、春香はえへへと笑った。
翌日、雄太は上層部に話をしに事務所へと向かった。驚いたのはお偉方である。
「え? ちょっと鷹羽くん……。それは本当にか?」
「ええ。妻が空いた時間を有効活用したいと言いまして」
「否、君の奥さんって、『東雲の神子』……だろう?」
「東雲の神子がタダでマッサージって……」
「それは……良いのだろうか……?」
口々に疑問を投げかけるお偉方に、雄太は苦笑いを浮べた。
(そりゃ、こう言う反応になるよなぁ〜。なんたって、東雲の神子が……だもんな)
顔を見合わせてヒソヒソと話し合っているお偉方を見るのも不思議な気がする。
「えっとですね。妻が無料でと言うのは、トレセンの皆さんに頑張って欲しいと言う気持ちからなんです。それで、スタンドの隅を使わせていただきたいと言う事なんですが……駄目……ですか?」
「あ……否。私共が躊躇しているのは、東雲の神子が無料でって処であって……」
(デスヨネ)
雄太が逆の立場であったら、恐らく同じような反応になるだろうと思っていた。
それでも、春香が無料でって言うのだから仕方がない。
「本部とも相談してみるよ。まぁ、大丈夫だと思う」
「あ、はい」
後日、許可が出たと言う事で、雄太は事務所に行き許可証をもらった。
「では、奥さんにはこの許可証を見える所に提示してくれるように伝えておいてもらえるかな」
「はい。ありがとうございます。お手数をおかけしました」
丁寧に礼を述べて、雄太は事務所を後にした。
「東雲の神子のマッサージが……タダ……」
「俺もマッサージしてもらいたいよ、本当に……」
「だよなぁ……」
事務所内にいた面々は、春香の施術は受けた事がなかったが、施術料は噂で聞いていた。
神の手でもなくとも、かなりの高額であるのが無料と聞けば受けたくなるだろう。
(休憩時間に視察と言う事で一度マッサージしてもらおう)
事務所内の誰もがこっそりとそう考えていた。




