312話
「昨日は忙しくて来れなくてすまなかったな。変わった事はなかったか?」
慎一郎は、厩務員達といつも通りの会話を交わす。
馬は生き物。正月だからと誰も居なくなる訳にもいかない。出勤していた厩務員から報告を受けたりと初出勤から忙しく動いていた。
「こいつの次のレースは……」
「飼い葉を残してるのか……」
自分が騎手の頃、調教師の仕事がここまで大変だと想像していただろうかと何度も思う。
(『知らない』『分からない』。そう言う事を放置してはいかんのだな)
ふと、昨日忙しく動いていた春香を思い出す。
(儂は、あの子を理解する事を放棄したのだったな……)
自分が浴びせた言葉で何度も傷付けた春香が、何もなかったかのように笑顔で『お義父さん』と呼び、せっせと働いていてくれた。
(あの時も……)
誰もがミナの持つ大きなカッターナイフに腰が引けていたのに
『ここに居る人達は、競馬が好きな人々の期待を背負っている人達よ。誰一人として怪我させる訳にはいかない』
と一人で立ち向かっていた光景は忘れられない。
無茶をする子だと思いながらも、人として認めずにいられなかった。
(気を使いながらも、それを感じさせずにいてくれるのだからな。若い子とは思えん。そうだ。また、きんぴらゴボウを持って来てもらおう。あれば美味かった)
理保のきんぴらゴボウも美味いのだが、春香のも美味かったと思い出してニヤリと笑う。
「調教師何か楽しそうですね?」
「ん? ああ、鈴掛か。何でもない、何でもない」
「そうですか? 金杯に出る奴、良い感じですね」
「ああ」
慎一郎は調教師としての顔に戻り、新年始まって最初の重賞に出る鈴掛と馬の仕上がりについて話す。
「うむ。これでいけるな、鈴掛」
「はい。そう言えば、元日は大変でしたね」
「あぁ〜。次から次で疲れたぞ」
慎一郎は苦笑いを浮べた。
「俺が伺うようになって一番の客の数になったんじゃなかったですかね?」
「ああ、正直驚いた」
「でしょうね。理由知ってます?」
「否。お前、知ってるのか?」
鈴掛は座っていたパイプ椅子を少し慎一郎の方に近付けた。
「春香ちゃんが雄太の元カノに斬られた時に言ってた言葉覚えてますか?」
慎一郎はさっき思い出していた話を振られて驚く。
「ああ」
「あの言葉が『騎手、調教師や厩務員の妻でもない女の子が言った』って事で広まってたらしくて。皆が『一度会ってみたい』と言ってたそうですよ」
「ほう」
「それと雄太に依頼を受けてもらいたい厩舎の調教師が『今、鷹羽家に行けば、G1騎手に騎乗依頼の切っかけが出来るかも知れない』と話しが広まってたって聞きましたよ」
(成る程な……。二つの理由でだったんだな)
訪問客ラッシュの理由が分かり慎一郎は、昨日訪れた数人から
「慎一郎調教師と雄太騎手は、良い方とご縁が結べて良かったですね」
と、言われた事にも納得がいった。
勤務を終えて自宅に帰ると、理保が大きな包みをテーブルに置いて待っていた。
「昨日忙しくて開けられなかったですけど、雄太と春香さんからのお年賀ですよ」
「そう言えば持って来てたな」
慎一郎は熨斗紙と包装紙を丁寧に剥がした。箱の蓋を開けると日本酒の五合瓶が五本入っていた。
中のカードには『日本酒飲み比べセット』とあった。
「お? 良いな。ん? 雄太が年賀なんて気の利いた事が出来るか?」
「きっと春香さんですよ」
「そうだろうな。雄太は本当に良い嫁をもらったな」
「ええ」
慎一郎も理保も自然に笑顔になる。
「理保。たまには一緒にどうだ?」
「あら、良いですね」
理保はテーブルに肴を並べ、いつもは一つしか出さない猪口を二つ出した。
「よし、今日はこれにしよう」
慎一郎は封を切って、理保の持つ猪口に注ぐ。そして、自分の猪口にも。
「あら、良い香りですね。今日もお疲れ様でした」
「うむ」
久し振りに差向いで呑む酒は格別だと慎一郎も理保も思った。




