309話
ようやく訪問客が途切れた。
(つ……疲れた……)
ただ挨拶を交わしていただけなのだが、調教師や馬主や慎一郎の所の所属騎手の相手をしていて、精神的な疲労がドッと雄太を襲った。
「お義父さん、雄太くん。お茶どうぞ」
春香が二人の前にある冷めきったお茶を盆に乗せ、新しいお茶を差し出してくれる。
「ああ。ありがとう、春香さん」
「ありがとう、春香」
二人並んでお茶を飲むとホッと息を吐く。
「ふぅ……。何だろうな? 今年はやたら訪問客が多い気がするんだが……」
「俺も思った。父さん、いつもこんなじゃなかったよな?」
「ああ。こんなに多いのは初めてだぞ」
雄太と慎一郎が首を傾げて話しているのを理保が笑って見ていた。
「もしかしたら、雄太と春香さんが家に居るからかしら?」
「まさか、そんな事はないだろう」
理保の言葉を慎一郎が笑い飛ばしたが、それは事実だった。
『今、慎一郎調教師の所に行くと鷹羽騎手が居るぞ』
そんな噂が広まりつつあったのだ。
普段、雄太に騎乗依頼を出しても受けてもらえないような厩舎の調教師が絶好調のチャンスだと詰めかけたのもあった。
騎手が騎乗を選べるのは複数依頼があった時だけ。リーディング一位を獲った雄太には良い馬の依頼が我先にと行く。乗ってもらいたくても先約されれば、騎乗してもらえるチャンスがない。
弱小と言われる厩舎にしてみれば、お近付きの機会を得たかったのだろう。
「春香、疲れてないか?」
「大丈夫だよ、雄太くん」
(初めての正月がこんな忙しくなるなんてな……)
両親の前と言う事でそっと背に手を回すぐらいしか出来ずにいる雄太に、春香はニッコリと笑う。
「あ、お義母さん。お茶菓子が足りなくななるかも知れないです。私、買いに行って来ますね」
「そう……ね。でも、この辺りのお店は皆お正月休みで開いてないのよ」
それでなくともトレセンの周辺には商店は少ない。個人店なら正月は三ヶ日は休んでいるのが当たり前だった。
「あ……。なら家にあるのを持って来ましょうか?」
「家にあるの?」
「はい。大晦日に実家近くの和菓子屋さんでお正月用に買って来たのがあるんです。後、お歳暮にいただいた最中や干菓子がいくつか」
理保は少し考える。余分に買っておいたつもりだったのが、殆ど残っていない事を考えると春香の申し出を受けるのが最善だと思った。
「じゃあ、お願いしようかしら」
「はい」
頷いて春香は立ち上がった。
「動いていた春香さんじゃなく、座ってた雄太に行かせりゃ良い。着物で運転も大変だろう?」
「父さん……」
当たり前のような顔で慎一郎が言うと雄太は脱力する。
「大丈夫です、お義父さん。雄太くんに会いたい方もいらっしゃると思うので、私が行って来ますね」
「全く……。春香、家に戻るなら着替えて来たら良いよ。着物のまま動いてたら疲れるだろ?」
「うん」
雄太は車のキーを手渡した。
春香が鷹羽家を出た直後から、また来客が訪れ始めた。今度はポツリポツリではあったが、それでもかなりの数ではあった。
「おお、若奥さんは和服ですか。華やかで良いですね、慎一郎調教師」
春香を褒められ御満悦の慎一郎は始終ニコニコとしている。
(春香は俺の妻だぁ〜っ‼)
雄太の心の叫びが通じたのか、春香はクスクスと笑いながら応接間とキッチンを行き来していた。
18時少し前になると、さすがに訪問客も途絶えた。春香が持って来た茶菓子は二つを残すだけとなった。
「春香さん、ありがとう。本当、助かったわ。お菓子なくなっちゃったけど良かったの?」
「はい。お役に立てたなら嬉しいです」
「そう? じゃあ、夕飯前だけどこれ二人で食べちゃいましょ」
「そうですね。お義父さんも雄太くんも食べないでしょうし」
梅の花を形どった上生菓子を二人で食べる。
「あら、美味しい」
「本当ですね」
疲れ切った体に上生菓子の優しい甘さが広がっていった。




