285話
金曜日の京都競馬場調整ルーム。
「なぁなぁ、雄太ぁ〜。結婚したら市村さんじゃなくなる訳だろ? 春香さんって呼んだ方が良いのか? 他の呼び方した方が良いか?」
布団に寝転び足上げをしながら純也は雄太に訊ねた。雄太はいつものようにミニアルバムを見ていたが、ふと考えた。
「あ……そっか。市村じゃなくなるんだよな」
「そうだよ。雄太は名前で呼んでるから、やっぱ名前は嫌かなって思ってさ」
「ん〜」
雄太は春香が結婚すると『鷹羽春香』になるのは分かっていたが、梅野と純也が『市村さん』と呼んでいた春香を何て呼ぶのかと言う事は頭になかった。
「鷹羽さんってのは、やっぱ変な感じすんだよな。雄太も鷹羽だしさ。市村さんとそう言う話はしてないのか?」
「多分、春香も忘れてんじゃないかな。プロポーズして婚約発表してが慌ただしかったからさ」
雄太はまだ成人していない為、慎一郎が結婚を反対したら入籍自体が3月の誕生日以降だと思っていた。まさか祝勝会で結婚を許された上、入籍も二週間後で良いと言われるとは思ってなかったのだ。
「春香さん……。春さんは? は〜さんってのは何か変だな」
純也はブツブツと呼び名を考えては口に出してみた。
「は〜さんって」
「何か飲み屋のねぇちゃんが客を呼ぶ時みたいだよな」
雄太も口に出してみて、その何とも言えない呼び名に二人でゲラゲラと笑った。
「鈴掛さんみたく春香ちゃんってのも考えたんだけど、俺の方が年下だしさ。いくら市村さんが友達って言ってくれてもなぁ〜」
「じゃあ、春香さんか春さんで良いんじゃないか?」
雄太もいつの間にか真剣に考えていた。
「雄太が良いならそうしよっかな。市村さんの旦那になるんだしさ」
(旦那……。春香の……)
想像したら目尻が下がってしまった雄太に純也がニマニマとした笑いを浮かべる。
「な……なんだよ」
「俺の友達ん中で、一番結婚が遅そうって思ってた雄太がもう結婚すんだよなって思ってさ」
「あ〜。うん、俺も自分でそう思った。俺は三十歳越えるかもって思ってたなぁ〜」
女性に対して良い印象がなくなってしまったのもあるが、自分から女性を口説くとは思っていなかったと言うのがあった。
「口説いて口説いて口説きまくったもんな」
「確かにな」
「結局、何回フラれたんだっけ?」
「ソル……。人の傷口に塩を塗るなって……」
実際、雄太がフラれた回数は片手では足りない。それでも、諦め切れずにいたのはなぜだろうと何度も考えた。
(やっぱ、誰かに取られたくなかったってのが一番かな……。あの笑顔が俺以外の野郎に向けられたらって思うとマジでムカつくって思ったし。春香の全部を俺だけのものにしたいって思ったんだよな)
柔らかなのに元気をもらえる笑顔。そっと握り締めてくれる小さいけれど力強い手。抱き締めてくれると伝わって来る温もり。
(春香は温かい……。本当、春だよな)
「んで、今何の写真見てたんだよ?」
「え? あ、祝勝会の時の奴」
雄太のプレゼントした青いワンピースを着て、プロポーズのピンクのバラの花束を持っている写真。馴染みの記者と来ていたカメラマンに撮ってもらった物だ。春香にも同じ物を渡してある。
「綺麗だな、春さん」
「ん? ああ。春さんで決定?」
「本人が嫌がったら変えるけどな」
雄太は春香の呼び名を思い出してみた。
「春香……。春香ちゃん……。春……。春ちゃん。春香さん……。春香自身はどれも嫌がってないから、春さんでも良いと思うぞ?」
「そっか。今度会ったら春さんって言ってみる」
「ああ」
結婚すれば春香の方が色々と変わるだろうと思っていた。住所も名字もだが、この先春香の職業欄は主婦もしくは無職。
(通帳の住所とかも変更しなきゃって言ってたなぁ……。俺は住所と新しい戸籍作るのと仕事関係に書類提出するだけだから春香の方が大変だな。思いっきり労ってあげなきゃな)
今頃、色々やってるんだろうなと考えると月曜日が待ち遠しい雄太だった。




