279話
翌日、調教を終えた雄太は実家に顔を出した。ダイニングに行くと慎一郎はお気に入りの湯呑みを手にニコニコと笑っていた。
「父さん、用って何?」
「家、決まったぞ」
「……はい? 家が決まった……? ちょっと待って。昨日の今日だよっ⁉」
雄太の顔を見るなり言った慎一郎の言葉を理解するのに数秒かかってしまった。
「G1騎手がいつまでも借家ってのも格好つかんだろうから、ついでに土地を探しておいてもらうようにも言って来たからな」
雄太は口をパクパクさせた。
(ど……どうやったら昨夜の内に家を借りられるんだよっ⁉)
「そんなに古い物件ではないが、一応ハウスクリーニングはしておいてくれるように言ってあるからな。明後日には綺麗になってるだろうって事だ。鍵を預かってきてあるから、一本は春香さんに渡してあげると良い」
そう言うと慎一郎はポケットから三本束になった鍵と一枚の紙をテーブルに置いた。
「契約書とかは?」
「ん? 父さんの知り合いだから無いぞ。家賃は口座に振り込めば良いそうだ。その紙に振り込み先と金額が書いてある。それも、春香さんに渡すんだぞ」
「う……うん」
理保が湯呑みを置いてくれたのを見て、雄太はようやく椅子に座った。
「あのさ……父さん。ちょっと訊きたい事があるんだけど」
「何だ?」
「春香のどこを気に入ってくれたか教えてもらっても良い?」
昨日、理保からは聞いたが慎一郎の口から聞きたいと思った雄太は慎一郎に質問をぶつけてみた。
「そうだな。まずはお前の事を一生懸命に考えている処だな。己の私利私欲で動かない処も良いな」
(うんうん)
雄太は心の中で頷いた。
「見かけは大人しそうだが勇気があるな。男気があるって言うのは女性に言うべきセリフではないが」
(男気って……)
ツッコミを入れたい気持ちをグッと抑えて続きを聞く事にする。
「お前に人生を単勝一点賭けと言えるのなんて中々どうして良い勝負師だ」
(褒めてん……だよな……?)
褒めてるんだかどうだか怪しいが、一応褒めているのだろうと雄太は思った。
「金に執着しない処も良いぞ。派手じゃないのも良い。ケバケバしいのは儂は好かん」
(父さんの女の好みを聞いてんじゃないんだけどっ⁉)
「騎手だけでなく厩務員や食堂の人達とも仲が良いらしいじゃないか。別け隔てなく付き合えるのは良い。騎手の嫁に向いてるぞ」
(どこまで春香情報知ってんだよっ⁉)
慎一郎の情報網は侮れないと雄太は思った。
「じゃあ、儂はトレセンに戻る。ちょっと気になる馬がいるからな」
「え? あ……うん。ありがとう、父さん」
「ああ。じゃあな。春香さんに宜しくな」
慎一郎は言いたい事を言って、慌ただしく家を出て行った。
「母さん……。父さん、変わり過ぎじゃない? 俺以上にウキウキしてるように見えるんだけど……」
慎一郎の語りを聞いてクスクスと笑っていた理保が座り、慎一郎の湯呑みを手に取った。
「雄太が来る前も大変だったのよ? 家具や家電を一揃え買うとか言ってて。住むのはそんなに広くない借家だし、春香さんは一人暮らししてるから、今使ってるのを持って来ると思いますよ。堅実な子ですからって言ったら残念がって」
「頭がクラクラして来たんたけど……」
あんな父を見た事があっただろうかと思い、雄太はこめかみを押えた。
「新しく家を建てる時に春香さんに相談してはいかがですかって言ったら、春香さんは儂を何て呼んでくれるだろうとか言っちゃって」
「本当に俺、父さんの暴走に着いて行けない……。母さん、父さんのブレーキ頼むよ」
慎一郎のはしゃぎようは理保も見ていて楽しいようで雄太はホッとしていた。
G1シーズンに入ると慎一郎はピリピリしているのが当たり前だったからだ。
「任せなさい。とりあえず、春香さんに家の事、話しておきなさいね?」
「うん、分かった。今日は時間もなんだし、明日会いに行って来るよ」
雄太は知らなかったが、この日の東雲マッサージは大変な騒ぎになっていた。




