272話
二人に土下座された慎一郎がたじろぎ、その慎一郎に理保がそっと手を添えた。
言葉にしなくても慎一郎には理保の言わんとしている事が伝わって来た。
『もう良いでしょう? 許してあげてはどうですか?』
慎一郎は理保から視線を床に頭を付けた春香に向けた。
「なぜ……そこまで出来る? ……命懸けで儂を庇ったり……」
「前にも言いました。私は大切な雄太くんの為なら出来る事は何でもやります。そして、雄太くんの大切なものの為でも」
顔を上げて答えた春香の前にしゃがんだ理保は、そっと春香の手を取った。
「え……? あ……」
「母さん……」
「せっかくの綺麗なワンピースが汚れてしまうわ。春香さん」
理保の手を取り立ち上がった春香を雄太は抱き寄せた。
(春香は……こんな大勢の中で……俺の為に……)
シンと静まり返った会場に慎一郎の声が響く。
「本気で雄太に……君の全てを賭けるんだな……」
「はい。私は人生の全てを雄太くんに賭けます。鷹羽雄太に単勝一点賭けです」
真っ直ぐに慎一郎を見詰める瞳に迷いはなかった。
「調教師が鷹羽雄太に騎乗依頼を出さんと言うなら、儂等馬主が騎乗依頼を出すさ」
「坂野さん……」
雄太は今朝も挨拶をした坂野を見て小さく呟き、春香も声をかけた。
「……坂野様……。大河内様……。月城様……」
調教師達は引きつった顔で、馬主達に声をかけた春香を見た。
馬主達は春香を見て頷き、慎一郎達の方を見た。
「まさか馬主の意向に逆らう調教師がおるのか? 儂等の意向を無視するなら転厩するしかないんだがな?」
「儂等の救いの女神の春香ちゃんが仕事を辞めるのは正直痛い。だがな、その春香ちゃんが人生を賭けると言うておるんだ。儂等に出来る事は何でもしてやるぞ」
「儂の窮地を救ってくれた春香くんの頼みならいくらでも騎乗依頼を出すぞ。心配なんぞしなくても良い」
馬主である彼等に調教師が逆らえるはずもない。何より顔を揃えているのは、重賞馬を含む複数の馬を預けていてくれる大馬主なのだ。
転厩をされた途端、厩舎の勝ち数が減ると言う大打撃になる。
「儂等の馬で足りんなら、他にも声をかけてやるぞ」
「春香くんの顧客の中で馬主をやっとる連中がどれだけ居るか知らんようだな」
「儂等馬主もレースに馬を出す時はライバルだが、春香くん絡みならいくらでも力を貸すぞ」
雄太の腕から手を離して春香は深々と頭を下げ、雄太も深く頭を下げた。
「皆様、ありがとうございます……」
春香の声は小さく震えていた。
(春香が助けた人達が……俺を助けてくれる……)
祝勝会の予約の時、
「恋人の伝手と言うのは男として恥ずかしい事かも知れませんが……」
と、坂野に言った。
坂野は大きな声で笑った後
『儂の窮地を春香ちゃんが救ってくれたんだ。その恩返しだよ。そして、鷹羽くんは今日恩を受けた春香ちゃんを大切にしてやってくれれば良い。恩を受けたら恩を返して行く。そうやって人の縁は繋がり広がっていくんじゃないかと儂は思っている。感謝する心を忘れるなよ、鷹羽くん』
と、言っていたのを思い出す。
「ありがとうございます。騎乗依頼をしていただけるのでしたら、精一杯の騎乗をします。宜しくお願い致します」
そう言った雄太に馬主達は大きく頷いていた。
「分かった。次のG1は儂の馬だな」
「何? 儂の馬だろうが」
「否。うちの馬だな」
誰が雄太に騎乗依頼をするかで揉めだした馬主達を見て春香は小さく笑っていた。
それとは真逆だったのは調教師達だった。まさか春香に馬主達との繋がりがここまであり、馬主側から騎乗依頼をされたら無視は出来ないと言う状態に何も言う事が出来ず青ざめるしかなかった。
「皆様、仲良くしてくださいね? 私にとって騎手も馬主もトレセンの皆さんも大切なのは変わりませんから」
にこやかに笑う春香を見て、雄太は改めて春香が仕事を辞める影響は大きいのだと思っていた。




