270話
大勢の招待客がホールに集まり、普段顔を合わせる事が少ない者達がワイワイと話している声が重厚なドア越しでも聞こえていた。
「春香?」
ドアの前で入場を待機していた雄太は、隣に居る春香が少し震えているのに気付いた。
「ゆ……雄太くん……。緊張して来ちゃった……」
雄太は、春香の両手を取りギュッと握り締めた。
「大丈夫だ。俺が居るから」
「うん。でも、雄太くんが格好良いから余計ドキドキしちゃうかも」
「え? 逆効果?」
「えへへ」
春香は艶のある黒いスーツを着た雄太を見上げて少し笑った。
「さて、御歓談中の皆様。本日の主役の登場です。盛大な拍手でお迎えください」
「あれ? 司会の人って……梅野さん?」
「そう」
雄太の作戦には梅野がうってつけだったから『祝勝会の司会、お願い出来ますか?』と言った時、二つ返事で引き受けてくれた梅野には感謝していた。
『婚約発表をする』と言うのは当日まで内緒にしていたが。
「ほら、行くよ?」
「うん」
雄太は握っていた春香の手を腕に回させた。
「腕を組んでなんて結婚式みたいだね」
頬を赤らめながら春香が呟くと雄太は笑いながら頷いた。
係の人がドアを開けてくれると大きな拍手がわいた。そして、雄太と隣に居る春香を見て驚いたのか一瞬間があったが、今度は歓声も上がった。
「本日の主役、第49回菊花賞を制し最年少G1騎手となった鷹羽雄太と婚約者市村春香さんの登場です。大きな拍手でお迎えください」
梅野はキリッとした顔をしながらマイクを握っていた。
二人が揃って頭を下げると再び拍手が大きくなる。会場にいた慎一郎は固まり頬をピクピクと引きつらせていた。
(こ……こ……婚約者……だとっ⁉ あいつ……本当にG1を獲ったら結婚するつもりだったのかっ⁉ しかも、祝勝会に連れて来るとか何を考えているんだっ⁉)
飛び出して行って問い詰めたい気持ちになったが、調教師鷹羽慎一郎と言う立場から、その場に立ち尽くしているしかなかった。春香を良く思っていない面々も表情を固くしていた。
華やかに飾られたステージに雄太と春香は登り、係の人からマイクを渡された雄太はゆっくりと礼をした。春香は礼をした後、一歩下がり雄太の斜め後ろに控えた。
「皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます。調教師の皆様、厩務員の皆様。いつも、ありがとうございます。菊花賞を獲れたのは皆様の御力あっての事だと思っています。どれだけ感謝してもしきれません。馬主の皆様。良い馬を回していただきありがとうございます。ご期待に応えられない時もありますが、これからも精一杯良い騎乗をしてまいります。たくさんの良い先輩達に恵まれ切磋琢磨していける事にも感謝しています。急なお知らせになり、今日来られなかった皆様にも心より御礼申し上げます。本当にありがとうございます」
雄太は深々と頭を下げ、斜め後ろに立った春香も頭を下げた。
「そして、私事ではありますが皆様に御報告があります」
雄太は振り返り春香に近寄ると背に手を回して前にと促した。
「11月4日に、こちら市村春香さんにプロポーズをし婚約致しました。入籍等の日取りはまだ決めておりませんが、これからは二人で手を取り合い、皆様の期待に応えられる騎手として頑張って行きたいと思っております。まだ若いと言われるかも知れませんが、皆様の御力添えを宜しくお願い致します」
二人揃って深々と頭を下げると、フラッシュが瞬き、一部を除き、会場には大きな拍手と歓声が湧き上がった。
係の人達が乾杯のシャンパンを配り始め、雄太はホッと一息吐いた。そして、苦虫を噛み潰したような顔をしている慎一郎を見た。
(最初は春香を婚約者として紹介するのは後でって思ったけど、最初にしたの正解だったな)
雄太は慎一郎に春香が来ている事が分かったら逃げられると思ったのだ。ならば、最初に『婚約者しました』と発表する方が良いだろうと司会の梅野と画策し、それは大成功だった。




