269話
11月14日(月曜日)
「お父さん、お母さん。先に行ってるね」
祝勝会に出ると言う事で、春香は朝一で美容院に行きヘアメイクをしてもらっていた。普段は見ない着飾った春香を見た直樹は、またもや『花嫁の父モード』に入っていた。
「お父さん?」
「ん? あ……いやな。春が綺麗な格好をして『お父さん』って言うのを聞いたら結婚するんだなぁ……って思って」
そう言って目をウルウルさせているのを見て、雄太は複雑な思いをしていた。
「雄太くん、君も娘を持てば分かるよ。本当………切ない……」
「あ……はい」
雄太は別の意味で複雑な気持ちになっていて、苦笑いを浮かべるしかなかった。
ホテルに到着し、控室として準備してもらった部屋に鈴掛達が集まっていた。
「雄太、お前随分大きな所を押えたな?」
「ええ。春香の伝手なんですけどね。ちょっと考えてる事があって」
「考えてる事?」
鈴掛がコーヒーを飲みながら雄太を見た。
「春香との婚約発表をしてやろうと思って」
「は?」
「おぉ〜?」
「良いんじゃね?」
鈴掛は目を丸くし、梅野と純也はワクワクしているような顔をした。
「ちょっと待て。もしかして……慎一郎調教師に黙って……って奴じゃないだろうな?」
鈴掛の顔が険しくなる。
「そうですよ。春香にも内緒ですけど」
「え〜? 市村さんも知らないのかぁ〜?」
梅野が目を丸くする。
「春香に言うと緊張するかも知れないですし。今日、直樹先生達が来てる事も父さんには内緒にしてます。どうせ、婚約したからと会わせようとしても忙しいって言って拒否するでしょうし」
春香と仲良くなり友達にもなった純也は、頑なに春香を拒否する慎一郎が理解出来ずにいた。
(何でなんだろなぁ……。父親ってのがそうさせんのかな? もしかして調教師って立場? どっちにしても市村さんと会っても変わらないってのが俺には分かんねぇなぁ……。市村さん、スゲェ良い人なのにな)
まだ十九歳の純也には父親の心境は理解出来ない。春香と接してみれば慎一郎も変わるだろうと思っていたが『駄目だった。父さんには何を言っても通じない』と悔し気に言っていた雄太を思い出すと、少し切ない気持ちになる。
「まぁ、分からなくもないが黙って婚約発表とか……」
鈴掛は難色を示すが、司会をする梅野はノリノリだった。
「んじゃ、雄太ぁ〜。婚約発表に切り替えるタイミングの打ち合わせしとくかぁ〜?」
「そうですね」
祝勝会と銘打ちながら婚約発表する気満々の雄太と梅野に、鈴掛は呆れなからも断固として反対は出来ずにいた。
(慎一郎調教師の気持ちも分からなくもないけど……。雄太は歩み寄ろうとしたんだよな……。春香ちゃんだって、ちゃんと向き合ったのにな……)
別室で直樹達と待機している春香を思う。雄太にあてがわれた部屋に入る前に春香達の控室に出向いて顔を合わせた。ヘアメイクをしてドレッシーなワンピースを着た春香を見て驚いた。
(女の子って本当に変わるんだな……)
我が子を思い出してしまった鈴掛は、直樹の気持ちがよく分かった。
「鈴掛さん、そのスーツ素敵ですね」
「ん? そうか? 春香ちゃんも素敵なレディに見えるぞ」
「嬉しいです。恥ずかしいですけど」
雄太の祝勝会だからと良いスーツを着て来たのに直ぐに気付いて、屈託のない笑顔を向けて来る。
笑う事の少なかった少女が大人の女性となった。それでも、邪気がない笑顔には癒やされる。
「じゃあ、また後でな」
「はい」
雄太と結婚すれば、騎手の妻としての責任から、また苦労する事も増えると分かっているはず。それでも雄太のプロポーズを受け、共に歩みたいと決意した姿は凛としていた。
(ま、俺に出来る事でフォローしてやらないとな)
春香の手に助けられた分の恩返しをしなくてはと思いながら、鈴掛は雄太の控室へと向かった。
この時は雄太に更に驚かされる事になるとは微塵も思っていなかった鈴掛だった。




