264話
「ちょ……ちょっと待て、春……」
「それでも反対するなら、私、家出するから。家出したら、もう二度とお父さんって呼ばないからね?」
「は……春ぅ……」
春香の実親から逃れる為に泣く泣く里美の旧姓である『市村』を名乗るようになった。実親が従業員達に『東雲春香は居るか?』と訊ねられても『そんな人は居ません』と言わせる為に。
そして、どこで聞かれているか分からないと言う警戒をする事から直樹達を父母と呼ばすに『先生』と呼ぶようには言ったが、直樹は『お父さん』と呼ばれたいと切望していた。
「そ……それだけはぁ……」
春香に初めて『お父さん』と呼ばれた日の事を思い出すだけで涙腺が崩壊してしまう直樹には、『お父さんと呼ばない』と言うのはとどめとも言えるセリフだった。
「雄太くんのどこが駄目なの? 優しいし、真面目だし、お仕事もちゃんとしてるよ? 何より私の事を大切にしてくれてるじゃない」
そう言い切った春香の頭を里美が優しく撫でた。
「お母さん……」
「もうそれぐらいにしてあげなさい、春香。直樹は……父親って言うのはね、理屈じゃなく娘を奪って行く男は全て敵なのよ。ビックリする様なイケメンでも、資産が国家予算並であってもね」
そう言われて春香は直樹を見た。
薄汚れた春香を連れ帰り、苦労に苦労を重ねて養女に迎えてくれた。しつこく金の無心をする実親から守ってくれた。笑えなくなった春香の為に骨を折ってくれた。深く深く愛情を持って育ててくれた直樹がしょぼくれて座っていた。
「お父さん……。私、お父さんと出会えて本当に良かったって思ってる。お父さんとお母さんの子供になれて本当に幸せだよ」
「春ぅ……」
直樹が大きな体を震わせて目を潤ませていた。
「私、どれだけ感謝してもし切れないぐらい感謝してる。結婚しても、なるべく帰って来るからね?」
「本当か? 本当にか?」
春香はニッコリと笑って頷いた。
「うん。結婚したら『お父さん』って呼ぶから。たまにはご飯作りに帰って来るし、肩叩きもするよ。雄太くんが遠征に行った時は泊まりに来るから」
「うん、うん」
春香はテーブルの上で固く握られた直樹の手の上に自分の手を重ねた。
「結婚しても、私がお父さんとお母さんの子供である事に変りはないの。だって、お父さんとお母さんが大好きだもん。だから、雄太くんとの結婚を認めて?」
「分かった。認める」
「ありがとう、お父さん」
春香の圧勝と言って良いぐらいだった。結婚の許しを得た春香にティッシュを手渡された直樹は何度も鼻をかんでいた。
「ほらね?」
「あはは……」
里美がコッソリと囁くと雄太は苦笑いを浮べた。
「鷹羽……じゃなくて、雄太くん」
「あ……はい」
今までと違い名前で呼ばれた事に驚き雄太を姿勢を正した。
「今までも……何度も言って来たように、春は俺達の大事な大事な娘だ。君の周りで春が100%歓迎されていないのは分かっている」
「はい……。分かっています」
G1を獲ったら結婚をすると慎一郎に宣言をしたが、実際に許しを得られるか雄太にも分からなかった。そして、春香との交際すら反対をしていた調教師達の反応を想像すると不安にはなる。
「競馬と言う特殊な世界の事は俺達には分からない。だから、君が春を守ってやってくれ」
「はい。正直……苦労する事が多いと思います。それでも、俺は精一杯春香を守ります。俺と一緒に夢を追いかけてくれる大切な春香を」
「ああ。春の笑顔と幸せを守ってやってくれ」
「はい」
雄太の力強く優しい言葉に、春香だけでなく里美も目を潤ませていた。
雄太はぼんやりと見慣れた天井を見上げながら、今日一日の出来事を思い返していた。
(俺……G1獲れたんだなぁ……)
「雄太くん、電気消すよ?」
「ああ」
並んでベッドに潜り込み、春香の体をギュッと抱き締める。
(春香……。俺の大事な恋人が大事な婚約者になったんだ)
雄太にとっても春香にとっても、一生忘れる事が出来ない一日になった。




