260話
京都競馬場 10R 第49回菊花賞 G1 15:35発走 芝3000m
カームは3番人気だった。
(雄太くん……。雄太くん……)
春香は競馬場の片隅で両手をギュッと握り締めて祈る気持ちでいた。
朝から雄太は掲示板入りも出来ずにいたからだ。
(やっぱり応援に来るって黙っていた方が良かった……? 雄太くんを緊張させちゃった……? ううん。雄太くんはきちんと集中出来るって言ってた。鈴掛さんも、雄太くんは調整ルームを出たら私の事を忘れるぐらいに集中してるって言ってた……。だから、大丈夫……)
騎手控室で、同じく菊花賞に出る鈴掛がポンと雄太の肩を叩いた。
「大丈夫だな?」
「はい。大丈夫です」
去年も出ていたのだから『大丈夫か?』とは鈴掛は訊かなかった。雄太は落ち着きながらも気合いが入った顔で答えた。
(こいつ……多少は緊張してるけど落ち着いてやがるな。本当、生意気な奴だな)
鈴掛は内心ニヤリと笑うと雄太の前の席に腰を下ろした。
大きく深呼吸して雄太は前に座った鈴掛の背中を見る。騎手の先輩として追いかけて来た背中。人生の先輩として見詰めて来た背中。レースで何度も見せ付けられた背中。
(デビューした時は、この背中が遠くに思えてた……。でも、今は違う。しっかり見えてる)
雄太は、もう一度深呼吸して目を閉じた。
春香はパドックを見に行きたかったが一度でも動いてしまえば元の場所に戻れる自信がなかった。八万人超の人々が京都競馬場に詰めかけているのだ。見難い位置ではあるがオーロラビジョンを見ているしかなかった。
号令がかかり控室を出て雄太はカームに跨った。
(うん。カームも良い具合に気合い入ってる。なぁ、カーム。頑張ろうな。俺とお前なら大丈夫だ。落ち着いて行こうな)
パドックでも、返し馬の時も今まで以上に良い手応えを感じていた。何パターンもレース展開を考え、マークすべき馬も考えた。
響き渡るファンファーレ。大勢の観客の大歓声。カームは動じる事なく落ち着いていた。
(カーム……頑張ってね)
春香はゲートに入るカームを見守った。大きな体で甘えて来る姿とゲートに入る姿が違っていて頼もしく見えた。
ガシャン
ゲートが開いてカームは飛び出した。先行の馬がグングンと前に行き、カームは中団後方に位置取った。
春香は雄太の姿を必死で目で追う。
(外枠だったのに雄太くん内側に入って行ってる……)
内側に入ってしまえば前が詰まれば先行馬でもなければ前に出られない。距離のロスはなくなるが。
(雄太くん……。カーム……)
一周目、スタンド前を通過していく馬達。馬群の中に居る雄太とカームを祈る思いで見詰めていた。
観客から大きな声援があがる。
「カームマリンってギリギリだった奴だよな?」
「鷹羽って二年目だっけ?」
「十九でG1は無理だろ」
一番人気の馬を応援している声が多かったが、その中からもチラホラと色んな囁きが耳に届く。それは、今までもあった事だった。
(確かに雄太くんは十九歳で……カームも出走ギリギリだったけど……。そんな事は関係ない……。勝てる時は勝てるもん。私は雄太くんとカームを信じてる)
歓声と拍手を背に馬達はスタンド前を通り過ぎていった。
春香も思いを込めて……祈りを込めてカームと雄太の背中を見送った。そして、コートのポケットに手を入れて、藤森神社の御守りとカームの単勝馬券をそっと握り締めた。
(私は応援するしか出来ない……。信じて応援するしか出来ない……。雄太くん……カーム……。頑張って。そして、無事にレースを終えて帰って来て)
2コーナーを過ぎてもカームは馬と馬に挟まれる状態で走っているのがオーロラビジョンに映っていた。
(頑張ってっ‼)
3コーナーの坂を下り、馬達は加速し始めた。雄太は一番人気の馬をピッタリとマークしていた。
4コーナーを回った所で歓声が大きく上がった。京都競馬場を揺らすかのような大歓声が響き渡った。




