259話
11月4日(日曜日)
京都競馬場の調整ルームで雄太はゆっくりと目を開けた。
(今……何時だろ?)
枕元に置いてある目覚まし時計を手に取った。時刻は、まだ5時半を少し過ぎた所だった。
(起きるには少し早いな……)
去年、菊花賞に出た時と違う緊張感があった。ただ、嫌な緊張感ではないなと思い、寝転んだままスゥ~と息を吸い込んだ。
(春香……)
調整ルームでは、やはり春香の事を思ってしまう。レースが始まると一切思い出す事はないのだが。
(俺がカームと出られるって思っててくれたんだよな……)
今日は春香が見にきてくれると思うと嬉しさで胸いっぱいになる。
昨年、初めてのG1である菊花賞に出走した時は掲示板にも乗れなくて春香はガッカリしたかと思っていたのに、拘束解除を待っていた春香からかけられた言葉が脳裏に蘇る。
『馬も一生懸命頑張ってたね。人参いっぱいプレゼントしたいくらいだよ。調教してくれた調教師にも、お世話してくれた厩務員さんにも感謝しなきゃだね』
付き合い出して直ぐだったのに自分以外にも感謝を気持ちを持ってくれた事に驚き、そして心から嬉しかった。
(あれから一年経ったんだな……)
今日、再び菊花賞に出る。確かにカームは出走出来るか微妙ではあったが、静川は出られると信じて調教をしていてくれた。
厩務員達もカームの調子が落ちないようにと気を配ってくれていた。
(本当、皆に感謝だよな。春香)
目覚まし時計の隣に置いていたミニアルバムを手にして春香との写真を眺める。
二人で写った物や春香だけの物など様々な写真の中からその時の気分で入れ替えて調整ルームに持ち込んでいるミニアルバム。梅野に撮ってもらった初デートの写真。初めての海で撮った写真。エプロン姿の春香。パラパラと捲り、最近春香がくれた二枚の写真を見詰めた。
(俺、施術服を着た春香の写真って持ってなかったよな。当たり前っちゃあ当たり前なんだけど)
新しく購入したと言う施術服を着た春香の写真。里美にお願いして撮ってもらったと聞いた。白い施術服を着て笑っている姿は新鮮だった。
そして、もう一枚は水色のTシャツを着て短パンを履いて、いたずらっ子のような笑みを浮かべている写真。
「どう見ても俺より歳上には見えないんだよなぁ〜」
受け取った時、迂闊にもボソッと言ってしまい、それを聞いた春香は盛大に頬を膨らませた。
「里美先生が自然な良い笑顔だって言ってくれたから雄太くんに持っていてもらおうと思ったのにぃ〜っ‼ もうあげないっ‼」
「ごめん、ごめん。それくらい可愛いって事だから」
笑いながら腕を思いっきり上げて写真を死守する雄太。ピョンピョンとジャンプして奪おうとする春香。
「笑ってるって事は、やっぱり子供っぽいって思ってるんでしょぉ〜っ⁉」
「ごめんって〜。んじゃ、大人っぽくベビードール着てくれる?」
ふと雄太の口をついて出た『ベビードール』と言う単語にピタッと春香が止まった。恥ずかしがって終わるかと思いきや、その日の春香は反撃に出た。
「……雄太くんが買ってくれるんなら良いよ。女の人が店員さんのお店に行って買ってくれたら着てあげる」
「い゙」
「私、影からコッソリ見てるから。何なら、今から買いに行く?」
そう言われて雄太は固まった。
(は……春香のベビードール姿は見たいっ‼ けど、俺が買いに行ってってのはぁ……)
「エッチな事を言ったら私が引くと思ってるでしょ? 無駄なんだからね。私、大人なんだから」
大人だと子供っぽい主張をする春香に、内心笑いながら雄太が折れてアイスで手を打った。
ググゥ〜〜〜〜〜
「ふぁ〜。おはよ……雄太ぁ……」
盛大に腹の鳴る音を響かせ純也が目を覚ました。
「ソルの腹の虫は爆音だな」
「良い腹時計だろ? ああ、腹減った」
寝起きの純也とゲラゲラ笑い合う。
とても、G1出場当日とは思えない朝を迎えた雄太だった。




