257話
10月30日(日曜日)
東京では天皇賞秋が開催されていた。
京都競馬場の騎手控室でモニターを見ながら、雄太は自分の夢が半分も叶えられていない事を自覚していた。
(今年は出られなかったけど、来年も天皇賞はあるんだ。絶対に諦めない。必ずあそこに行ってみせる。春香を連れて行くんだ)
月曜日の夕方、寮に戻る雄太をなぜか春香が引き止めギュッと抱き締めた。
「どうかした?」
問いかけた雄太を見詰めた春香は泣きそうな顔をしていた。
「うん。何か……雄太くんが焦ってるような……悩んでるような気がしたの。何かは分からないんだけど……」
「え?」
雄太はドキリとした。春香の前ではそんな素振りを見せた覚えはなかったつもりだった。
「焦らないで? 焦って怪我したら、私どうして良いか分からなくなっちゃうかも知れない……。悩んでる事があったら話して……? 私じゃ解決出来ないかも知れないけど聞くくらいなら出来るから……」
(春香……)
雄太が何を焦っているかなど春香に分かる訳もなかった。それなのに些細な変化が伝わってしまっていたのだろう。
何かは分からないけれど不安になったのだと切ない表情で雄太を抱き締めていた。
(俺って、やっぱり分かり易いのかなぁ……。春香を不安にさせるつもりはなかったのに……)
「大丈夫だよ。ごめん。ほら、G1シリーズ始まるからさ。緊張してるのかも知れない。頑張らなきゃって思ってるしさ」
「うん」
(焦る事はないんだ……。今年が駄目なら来年もある。春香は……俺だけの大切な春香はここに居てくれる……)
何度も何度も自分に言い聞かせた言葉を繰り返した。
(不安にさせてどうすんだよ。しっかりしろ、俺。それでなくても、普段から落馬とかの心配させてんだぞ? それプラスで不安にさせるとか駄目じゃないか。俺の大好きな春香の笑顔を守るんだ)
しっかりと抱き締めて髪を撫でて、何度も何度もキスをした。
(目標は目標だ。今年、目標が達成出来なかったからって春香と結婚出来ない訳じゃない。馬鹿だな、俺。春香に悲しい顔させんなよ)
雄太の心境の変化に気付いたのは純也だった。
いつものように雄太の部屋に布団を持ち込んでいた純也は、春香の写真を見ている雄太に訊ねた。
「雄太、何かあったのか?」
「ん? うん。俺、春香が好きだなぁ〜って」
唖然として口をパクパクさせた純也は
「今更何だよっ⁉ そんな事知ってるぞっ‼ 知り過ぎなぐらい知ってるぞっ‼」
と、叫んだ。
「アハハハハ。冗談……って訳じゃないけど、な」
「へ?」
雄太は春香と写った写真を見ながらニッと笑った。
「俺さ、勝ちたい気持ちがあるのは良い事だって思ってんだ。でもさ、それが焦りになったら駄目だって分かったんだ」
「ん? どう言う事?」
「例えばさ、馬混みの中で前に行かなきゃって時に周りを見ずに行ったら危ないだろ?」
雄太は一度視線を春香の写真に移して、純也を見た。
「そう言う時こそ、焦らずに周りをしっかり見なきゃって思ってさ」
「そりゃそうだろ? え? 何で雄太が今更そう言う事を言う訳?」
純也が不思議そうな顔で訊ねた。前に行こうとした時に前の馬の速度を考えずに突っ込めば接触をする。外に出そうとしても同じで、前の馬が下がってきたり、後ろの馬が速度を上げているのに気づかなかったら接触の危険がある。
「うん。俺、ちょっと焦り過ぎてたなって思ってさ」
「……市村さんとの事か?」
「まぁな」
純也は敷いた布団の上に座っていたが、ゴロンと横になりグッと体を伸ばした。
「雄太のペースと市村さんのペースが合わなかったりしたら、その時に話し合えば良いだろ? 俺、雄太が市村さんのペースを無視して突っ走ってるとは思ってねぇし」
長い付き合いの親友はそう言って笑った。
純也も先を行く雄太に焦りを感じていた時もあったと言った事があった。そして、追うべき背中が雄太で良かったとも言われた。
その親友とモニターで見ている天皇賞はやはり輝いて見えた。




