253話
「ねぇ、もう少し時間あるし、あの山の上の展望台に行かない?」
トレセン近くの喫茶店で食事をしていると、春香は初めてデートをした展望台に行こうと誘った。
「そうだな。久し振りに行くか」
二人にとっては思い出の場所。あの時のように駐車場に車を停めて、手を繋ぎながら展望台に向かった。
「雄太くん、カームとG2に出るんだよね? 何てレース?」
「京都新聞杯だよ」
「じゃあ、京都競馬場なんだね。見に行けるかなぁ〜」
仕事復帰してから忙しい日が続いていた。そして、雄太に会わせようと言う直樹達の配慮から夏休みを打診され喜んで北海道に行った事により、予約が詰まっている春香は悩む。
「忙しいんだろ? 無理しなくて良いからな?」
「うん。G1だったら無理してでも行きたいなぁ〜」
「それは俺も見て欲しい」
「うん」
無理は承知しているが、やはりG1に出る時は見に来てもらいたいと思ってしまう。
「俺、カームと相性良いと思うんだ。乗りやすいしさ。きっと頑張ってくれると思う」
「うん。私ね、カームに何て言って良いか分からないんたけど強さを感じたの。頑張って欲しいなぁ〜」
カームと戯れながらそんな事を感じていたのかと雄太はニコニコと笑いながら歩いている春香を見た。
展望台に着くとあの日と同じように隣に座る。あの日より二人の距離は近い。
雄太はそっと左手で春香の肩を抱いた。
「ここで……私、雄太くんに好きって言っちゃったんだよね」
恥ずかしそうに言いながら、そっと雄太の右手を握り締める。
「俺、何度もフラれてたから嬉しかったんだ。飛び上がりたいぐらいに」
「私、何度もお断りしてたけど、本当は雄太くんに好きって言ってもらえて嬉しかったんだよ?」
好きで好きでたまらなかったと泣きながら言ったあの日。大好きだからこそ断らなければならなかったと言われたあの日。あの頃の春香はつらかっただろうなと想像する。
(あの時、本当に感じたんだ。春香はどんなに苦しんでも俺の事を一番に考えてくれるんだって……。それは今も変わらない……)
重幸が春香がカッターナイフを怖がるかも知れないと言っていたのが現実になっていたのだ。
春香の自宅に向かおうと駐車場に車を停めた時、直樹が店から走って出て来て呼び止められた。
「もう、落ち着いてるんだが……。水曜日の朝、開店作業してた春がカウンターに置いてあったペン立てを落としたんだよ。でな……。カッターナイフが床に落ちたのを見て過呼吸に近い状態になったんだ」
「えっ⁉」
「兄さんに言われて春にカッターナイフを見せないように引き出しにしまってたんだが、前日に荷物の紐を切るのに使って、つい癖でペン立てに戻してしまったんだ。俺のミスだ」
直樹はすまなそうな顔で話を続けた。
「春は君には言わないでくれって言ってたけど、知らない方が嫌だろう?」
「はい……」
斬りつけられて出来た腕の傷跡はまだ薄っすらと残っている。心の傷は、まだまだ癒えていないのだろうと切なくなる。
春よりは長くなった髪を優しく撫でるとそっと胸に寄り添ってくれる。
「あ、あの時さ。俺、付き合ってって言ってOKもらって嬉しくてキスしちゃったけど……。軽い奴だって思わなかった?」
「ううん。私、嬉しかったよ。凄く恥ずかしかったけど」
真っ赤な顔をしていた春香が自分より歳下に思えたのは内緒にしておこうと雄太は思った。
「ねぇ。あの時みたいにキスして欲しいな」
そう言ってジッと見詰める春香をそっと抱き締めてキスをした。
(あの頃はキスのおねだりしてもらえるなんて夢にも思わなかったぞ)
あの日からお互い一つずつ歳を重ねた。色んな事があったが、あの頃より好きな気持ちは増していた。
(好き過ぎて淋しいとか思うんだもんなぁ……。遠征行く前は、春香が淋しい思いをしてたら〜とか思ってたのに)
抱き締めた温もりと楽しそうな笑顔が自分の腕の中にある。それが何より幸せなのだと雄太は思った。




