252話
翌週の月曜日
日曜日の神戸新聞杯G2で三着になった雄太は春香を連れてトレセンに向かっていた。
「私が一緒でも良いの? 雄太くんに用があるんじゃないの?」
「調教師が是非って言ってくれたんだよ」
(ん……。どうして私が行っても良いんだろ……? 会った事のない方……だよね?)
休みのトレセンは人も少なく静かだった。時折、馬の鳴き声や地面を掻いているような音が聞こえる。
厩舎に向かうと馬房の前にいた人に雄太が声をかけた。
「静川調教師」
「おう、雄太ちゃん」
振り向いた静川は、辰野と似た雰囲気で優しそうな笑顔を見せた。
「初めまして。市村です」
春香が挨拶をすると目尻の皺を深くして頷いてくれた。
「君が市村くんか。初めまして、静川です。辰野調教師から話を聞いてから、ずっと会いたいと思ってたんだよ。早速だけど一緒に来てくれるか?」
静川はゆっくりと馬房に入って行き、雄太と春香は後に続いた。
歩いていくと奥の方の馬房からヒョコっと一頭の馬が顔を覗かせた。
「カーム」
雄太が声をかけるとその馬は雄太の方をジッと見ていた。
「カーム? 何度か雄太くんが乗ってる子ですよね?」
「そうだよ。三月のすみれ賞から雄太ちゃんに背中を任せてる馬で、今度G2に出走予定なんだ」
静川は春香に丁寧に教えてくれた。驚いたのは雄太だった。
(春香、俺が乗ってる馬の名前覚えてるのか……)
春香は『カームマリン』と名札のある馬房に近付いた。
「初めまして、カーム」
春香が声をかけるとカームは首を伸ばすと春香に鼻面を近付けた。フンフンと鼻を鳴らすカームの鼻面を春香は撫でた。
その様子を見ながら雄太は静川を見ながら小さな声で訊ねた。
「静川調教師、どうしてカームを春香に会わせたかったんですか?」
「ん? あの子だろ? 厩舎に色々な差し入れしてくれてる子って」
「あ……」
春香が厩舎に差し入れをしている事を雄太は最近まで知らなかったのだ。春香から聞いた時は驚いた。相当な金額だったし、雄太に花束を贈った時のように名前も書かずに送っていたと言うのだ。
「分かってる。誰にも言ってないから。辰野調教師からも聞いてたが、あの子は変な駆引きが出来るような子には見えんな」
雄太と静川が話してる間も、春香はカームを撫でて楽しそうに笑っていた。
「俺が会ってみたかったんだよ。それにしても無邪気な子だな。何より初めて会ったのに、馬が安心して耳も絞らずにいる。良い子の証明じゃないか」
何度か春香はトレセンを訪れていたが、広大なトレセンで厩舎が離れていれば会う事もないし、騒ぎのあったあの日は静川はトレセンに居なかった。
「そうですね。春香は馬に好かれるのかも知れません。初めて乗馬をした時も、馬を怖がる事もなかったですし、馬も嫌がりもしなかったですから」
「馬に好かれる奴に悪い奴は居ない。だろ?」
「はい」
鼻面を大人しく撫でられていたカームが春香をペロペロと舐めだした。
「おい、カーム。お前、春香を……」
雄太が慌てて近寄ったがカームは雄太を無視して舐めていた。唾液でベトベトになった顔で春香が笑っている。
「雄太く〜ん。私、何で馬に舐められるんだろぉ〜。プハァ。カームってばぁ〜」
静川は我慢出来ずにゲラゲラと笑い出した。
「雄太ちゃんと一緒で市村くんが大好きなんだな」
「調教師……」
カームと戯れ、厩舎の他の馬を見学させてもらった春香は上機嫌だった。
「やっぱり馬って可愛いね」
まだ、春香を毛嫌いしている人も居るのは分かっていたが、それでも春香に理解を示している人が居ると知って欲しかった雄太はホッとした。
(少しずつでも良い……。春香を分かってくれる人が増えて欲しい。全員でなくても良いから……)
夏の名残のある空を見上げて雄太は願った。




