245話
夏の風が少し伸びた髪を揺らす。トレセン周りは緑も多いからか、蝉がうるさいくらいに恋を歌い上げている。
(私が雄太くんを好きになったから雄太くんの周りが騒がしくなっちゃったのかな……? それとも、私じゃなったら良かったのかな……?)
何度も何度も胸に押し寄せる不安。消えたと思っても、また思い出したかのように湧き上がる。
(駄目、駄目。こんな事を思ったら、雄太くんに悪いよ。雄太くんの悲しそうな顔は見たくない。しっかりしなきゃ)
しばらく雄太に会えないと言う事実が不安にさせたのだろうと思って、両手でパンッと頬を叩くと大きく息を吸い込んだ。
「やぁ、市村くん。出張施術?」
「暑いね。元気にしてたかい?」
「おや、春香ちゃんじゃないか」
厩舎前に立っているとたくさんの人が声をかけてくれる。騎手や厩務員だけでなく、スタンドで働いているパートの女性までもが笑顔で話しかけてくれる。
「こんにちは」
春香が笑って返事をすると笑ってくれる。遠くから手を振ってくれる人も居る。
(ほら、大丈夫。皆が皆、私を嫌ってる訳じゃない。いつかなんて甘い事は思ってないけど、一人でも分かってくれる人が増えてくれたら良いな)
『春香、大好きだ』
雄太の優しい声が聞こえた気がしてそっと胸に手をあてる。
(私も雄太くんが大好き。頑張ってね。応援してるから。今夜も声が聞ける……。だから、私も頑張るね)
「春、終わったぞ」
「あ、はい」
湿布等を終えた直樹に声をかけられ春香は駆け寄った。
「それじゃ、失礼します。お大事に」
片付けを終え、荷物を抱えて頭を下げた春香に、辰野と小園は笑顔で答えた。
春香と直樹が厩舎を後にすると、小園が辰野に声をかけた。
「調教師、あの子が雄太の……ですよね?」
「ん? ああ、そうだ」
「そうですよね……。何か噂で聞いていた感じとは全く違いますね」
「ああ。雄太の賞金目当てだとか、悪女だとか言いたい放題だったからな」
小園は直樹に言われた通り、ゆっくりと椅子に座って一息吐いた。違和感は既になかったが充分気を付ける。
「ええ。言っちゃ悪いですが、どんな年増の悪女なのかと思ってたんですよね。正直『この子が……か?』って思ってしまいましたよ」
「儂も最初は雄太が悪い女に騙されていたらと心配したが、話を聞いてみたら雄太から惚れたと言うし、市村くんと話してみたら噂と真逆で驚いたぞ」
「ええ。そりゃ、雄太に期待を寄せる人の気持ちも分かりますよ? けど、あんな良い子だと知ったら……ねぇ?」
小園はニコニコと話す顔や真剣に施術をしてくれた春香と接してみて、どこで歪んだ春香像が広まったのかと疑問に思った。
「雄太と似てると思わないか? 普段と仕事をしている時の違いだったり、仕事に真摯に向き合う姿とか」
「それは分かります。心にスイッチがあるって言う感じですね。それにしても、俺は騎手ですよ? 雄太とは競い合っている人間なのに、出張施術までしてくれるなんて……」
楽になった腰が春香の腕の良さを証明していた。だからこそ、小園は『なぜ?』と思っていた。
「単純に考えればライバルなんていない方が良いのだろうけどな。雄太と同期の塩崎にな『ライバルは居た方が良い』と言ったそうだぞ?」
「へぇ〜。あんなおっとりしたような子のセリフとは思えないですね」
勝負の世界で生きて来た男の自分でも『ライバルは居た方が良い』と迷いなく言えるだろうかと小園は思った。
「中々言えまいて。若い女の子に言うセリフではないかも知れんが『男前』な子だと思ってるぞ」
「確かに。あんな可愛らしい女の子に『男前』って言葉は似合わないですけど『男前』ですね」
小園は笑いながら、ゆっくりと立ち上がった。
「それじゃあ、俺も失礼します」
小園は深々と頭を下げた。
「無理はするなよ? せっかく治してもらったんだからな」
「はい。頑張って来ます」
後々、健人は春香に対して暴言を吐いた事を父親の小園に嫌という程叱られる事になる。




