239話
雄太が向かったのは、以前梅野に教えてもらっていた店。
(有名になるって窮屈になる事なんだな……。春香が好きな場所にも連れてってやれなくなるんだ……。俺も良いレストランとかあんま好きじゃないんだよな。テーブルマナー完璧じゃないし……。恥かきたくないし覚えよう……)
写真週刊誌に写真を撮られても『密会』等と書かれる事はなくなり『爽やかデート』と書かれるようにはなった。少しずつ変化して行っていく事に、たまに不安になった時もあるが、自分以上に不安な気持ちを春香が抱えているのではないかと思っていた。
「春香は何が食べたい? 俺は車海老にしようかな」
「私、ホタテが食べたいな」
新鮮な物を目の前で焼いてもらいその美味しさを噛み締めていると幸せだなと思う。そんな幸せを二人で味わえる事は雄太にとっても春香にとっても大切だと言う事に変わりはない。
にこやかに食事をしてる二人を見ていた人々は週刊誌に書かれているように『爽やかだな』と思っていた。二人には、そんな人達の気持ちは分からなかったが、見ている人の視線が優しくなった気がしていた。
阪神競馬場 10R 第29回宝塚記念 G1 15:35発走 芝2200m
(雄太くん、頑張って)
常連の男性客達と待合のテレビの前で春香は手を握り締めていた。
「春ちゃん、今日も本命は鷹羽騎手かい?」
「はい」
春香は笑いながら答えていた。
「鷹羽騎手、ここに通ってるもんなぁ〜」
「愛想良いのにガッツのある騎乗するもんな」
春香が怪我をした時に心配をしてくれた優しい人達だ。
「ほら、スタートだぞ」
ゲートが開いてからずっと雄太は後方にいた。周りはほぼベテランと言われる騎手ばかり。
「ん〜。前に出られないのか?」
「スタートは良かったのにな」
「抑えてるだけだろ」
(大丈夫……だよね……?)
進路が塞がれている訳ではないが前に行ける感じがしていなかった。4コーナーを曲がって、ようやく前に行けるようになった。
(雄太くんっ‼ 頑張ってっ‼)
何とか馬群を抜けた雄太が前に前に上がって行った。
「行けっ‼」
「後もう少しだっ‼」
後少し前に行けなかったが、雄太は五着入線。掲示板入りを果たした。
「あれだけ後方に居たら上り切れないって思ったぞ」
「若いのに本当に良い騎乗するよな」
競馬好きな年配男性達からの褒め言葉に春香は雄太の悔しさを思いながらも拍手を送った。
(雄太くん、お疲れ様。格好良かったよ。大好き)
春香の自宅に帰って来た雄太は箱入りの枇杷を抱えていた。
「枇杷?」
「うん。アレ買いに薬局寄ったんだけど、隣の八百屋の店先にあったこいつが目に入ってさ。何か食べたくなって買って来た。春香も果物好きだろ?」
「うん。ありがとう。冷やしておくね」
春香に枇杷の箱を手渡し、脱衣場にバッグを置き、夜の必需品を寝室に置きに行く。
既にベッドの上には、着替えが置いてあった。少し暑くなって来たから薄手のスウェットの下はそのままにして、上はTシャツにしようかと考えていると春香が顔を覗かせた。
「どうかしたの?」
「ん? ああ。せっかく出しておいてくれたんだけど、上をTシャツにするかなって考えてた」
「蒸し暑いと薄手でも長袖だと汗だくになるかもね。じゃあ、半袖にする?」
春香はクローゼットを開けて、雄太専用にしてある引き出しから半袖のTシャツを取り出した。
いつの間にか、春香の自宅にスウェットや部屋着だけでなく、着替えもそれなりに置いてあった。
「泊まりに来る度に持って来なくても、私洗濯するから脱衣籠に入れておいて良いよ」
「え? 良いのか?」
「うん」
そんな話をしてから調整ルームに持って行った着替え等も一緒に洗濯してもらっていた。そこまで衣類を持っている訳ではないのは雄太も春香と似た感じだった。
茶碗や箸も揃っているのだから、日曜日と月曜日だけの同棲と言っても良いかも知れなかった。




